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Noriko's Blog

3月22日への歩み その11

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故・渡辺武雄元名誉理事。音楽学校ではモダン・ダンスを習っていた私達は、渡辺先生と慕っていました。

先生は、「宝塚は故郷、家族のようなもの」と常々おっしゃっていて、その生涯を同窓名簿の編纂を使命とされ、

尽力を尽くされました。それは、日本国内だけでなく、アメリカに渡った元タカラジェンヌの名簿も作っていらっしゃいました。

ロサンゼルスで子育て真っ最中の私に、ある時お手紙を下さって、「登坂くん、アメリカにも、宝塚の先輩がいるから、お姉さんのように慕って、宝塚の繋がりを大切にしなさい」と、アメリカ版宝塚同窓名簿を送って下さったのです。

当時はまだそんなに海を渡ったジェンヌの消息はわからず、印刷にして1〜2枚だったと思います。

私は、文字通り、その後その宝塚の大先輩方に、それはそれはお世話になって、今でもその繋がりは宝物です。

特に、時凡子さまは、男の子二人かかえた私が、演劇学校に通っている頃、何度も息子を預かって下さり、母のように姉のように助けてくださいました。

 

その演劇学校時代、9.11直後のロサンゼルスで、ヒロシマの子供劇を上演するとき、私は頭を抱えました。アメリカの子供たちにどうやってこの劇を伝えたらいいのだろう。

主人公は白血病で死んでしまいます。ですが、悲劇だけを伝えるには、無理がありました。アメリカの子供たちは原爆で戦争を終わらせたと学習しています。

日本人の私が被害者的意識を持って演出しても、そこからは何も生まれない。

そうだ、私は宝塚出身じゃないか。音楽や、着物や、日舞、人の心に住む鬼は、引き抜きという舞台上で衣装を変えるということで、表現出来ないかしら….

そして、凡子さんにお願いして、日舞を振り付けして頂きました。

ハリウッドのど真ん中の演劇学校に、凛として着物姿で現れた凡子さんに、ロサンゼルスの仲間たちは、あっけにとられ、

「Noriko, who is she???」倫子、あれは一体誰なの?正座もままならないアメリカ人に、立ち振舞から始まって、

素敵な振りをつけて下さいました。舞台は大成功。1年で13回公演。1000名の貧困地区の子供たちを、無料招待することが出来ました。

 

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先に上げた渡辺先生の写真は、私がアメリカから帰国したばかりの2005年のお正月のものです。

これから、どこに行ったらいいのか、何をどうやって始めたらいいのか、まったく0の私に、

「登坂くん、ちゃんと歌劇団に帰国のご挨拶にいらっしゃい。」と、おっしゃって、

劇団内の、ご自身の小さなお部屋に案内してくださいました。

窓も無い部屋です。お正月にしてはあまりにも殺風景。

「登坂くん、君は絵が上手かったね〜。何か描いてくれないか?」

「はい!じゃ、先生、鏡餅を描きます。」

私が描いた鏡餅、先生はえらく気に入って下さって、「こりゃいいや、絵に描いた餅や!」と大笑いされたのが、

ほんとに懐かしい思い出です。

ご自身がアメリカでダンスを学ばれた頃や、ビデオも無い時代に地方の山奥までオープンリールを抱えて、伝承民謡や民舞を

身振り手振りで記憶して舞台に上げたときのお話などを沢山してくださって、

「登坂くん、いつも、ホワ〜イ?WHY? 何故?と考えることだよ」と、少年のようなキラキラした瞳でおっしゃったのです。

 

渡辺先生が繋いでくださった、凡子さんとのご縁。先日、凡子さんよりお便りと小包を頂き、

ご自身が在団中に着ていらしたお着物を3枚、私に送って下さいました。

どれも、それは美しいお着物です。ありがたく頂き、

22日はそのうちの一枚を着させて頂こうと思います。

初演から14年。旧小阪邸の美しい日本家屋そのままを残したその空間には、

きっと着物が映えると思います。

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追記:凡子さんと高尾山に登ったことがあります。小さい頃に、疎開されていたそうで、

ああ、この川、この道、このお店!と、それはそれは懐かしそうにされていました。

戦争中はせっかく音楽学校に合格しても、舞台に立てなかった宝ジェンヌも

沢山いたと聞きます。

 

さて、当日まであと5日です。

では、いよいよ…..

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