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studio unseen

Noriko's Blog

硫黄島での声 「太陽」「風」「雨」「島」…そして「猫」その5

いました!

島猫

 

こいつがボス。

この企画、真の依頼主はこの方。

半年前にお願いされまして、

お願いしま〜ス!

お願いしま〜ス!

もう、2つ返事でご返答申し上げたのが、半年前。

 

最後に、この島に生きとし生けるものを紹介します。

まず、この島。

生きてます。呼吸しています。

いまでも島は大きくなっていて、浜の形もどんどん変わっていくそうです。

 

生きている=変化すること

 

ついにボスに会えました。

他の皆様にも….

私が空輸したキャットフードを食べて頂けたときの感動…..

 

 

内地の猫とはどこか風貌が違います。

 

黒ちゃんはご飯食べて満足すると……

ガリガリガリガリ

爪とぎは椰子の木でございます。

そこここにいらっしゃいます。

夜も会いに。

真っ暗なので、懐中電灯持って参ります。

こんばんは〜。

恍惚とも言える表情。

隊員の方が首つかまえると、かーちゃんに運んでもらった時のことを

思い出してしまうらしく、ずっと気持ちよさそうにこのまんま。

なぜ、こんなになついているのだ!

島では仔猫も生まれています。

かーちゃん、食べてます!

夏にはまだこんなに小さかった仔猫が…..

こんなに大きくなりました。

他にも島にはなぜか増えていく鶏。烏骨鶏です。

かーちゃんと雛はやっぱり同じ色なのですね。

朝、時告げ鳥を聞いたのは何年ぶりだろう…..

これら猫も鶏もどこから来たのかわからないそうです。

もともといたのかしら、それとも船に乗っかって来ちゃったのか…….

 

資料館でみつけた写真。

確かにこの子たちも命のリレーを繋いでいるのですね。

 

いました、白鳥も。

島猫夜のご飯時に懐中電灯と申しましたが、

島の夜は真っ暗です。

3日間、この島で過ごしていると、気がついたことがあります。

夜にはネオンはもちろん、強烈な光で見せつけられる液晶の画面も、車のヘッドライトもありません。

昼も、何かが違うと思って気がついた!

建物に文字一つない、看板も無い。

つまりは、目からくる情報が最低限度だということに。

私は、なんだか自分が快気していく気がしたのです。

いえ、こうやって戻ってきた今日も、何かめぐるエネルギーを

感じます。

 

生き返らせてもらったのかもしれないなあ…….

 

我々は、これからどこに向かっているのだろう…..

夜は、真っ暗の闇の中でみる、満天の星空を観に行きました。

天の川が見えたし、流れ星みた楽団員も。齢54歳の同級生5人は

いつもまでもいつまでも寝っ転がって星を見つめていました。

 

小笠原諸島の火山列島に属する硫黄島、小笠原諸島は2010年に世界遺産に登録されました。

けれども、この島はならなかった。なぜなら戦争で生態系が崩れてしまったからだそうです。

島を覆うように生息している銀ネムの木は、

当時散乱していた兵士たちの遺体を隠すために

アメリカ軍が上空から繁殖力のある銀ネムの種を撒いたそうです。

運命の硫黄島の自然は、外来種と混合し、独自のものになりました。

 

とてもじゃないけど写真に撮れなかった、大やけどをおった島猫みーちゃんに会いました。

ベロリと左側の皮が剥けていて、車に巻き込まれてしまったらしい。

みーちゃんは動けないので、朝ごはんを持って参りましたが、

そこで出会った遺骨収容のヴォランティアの方とおしゃべりしました。

お父様が戦時中ミャンマーで亡くなられたそうです。今もこうして毎年4回、硫黄島に遺骨収容に

訪れていらっしゃるそうです。

遺骨は「柱」と数えます。ご一体とは数えられないからか…..

その方の風貌から年齢を想像するに、

お父様が亡くなられた時は、きっとまだ小さかったと思います。

一家の大黒柱を無くされたご家族の戦後はどんなだったのでしょうか。

懸命に食べているミーちゃんの、焼けてむき出しになった赤い肉をみていると、

前日に行った医務科壕の暑さを思い出し、

こうやって、島猫は寡黙に何かを教えてくれているのかもしれません。

 

隊員たちの方や、遺骨収容のヴォランティアの方たちに優しくしてもらって、島猫たちはほんとに幸せそうでした。

 

最後に、歌詞がなかなか覚えられなかった硫黄島基地隊の「硫黄の島」

言語とイメージを合致させるとすぐに頭に入ります。

これが最後にはこうなりました!

 

ここに来るために最初があったのだなあと思います。

あらためて、お世話になった皆様に感謝を述べると共に、

手を合わせて合掌します。

 

~硫黄の島~   作詞作曲:自衛隊のどなたかが作ったそうです。

 

擂鉢の山から見下ろせば

どこまでも続く、海原と

豊かに映える、緑たち

今も眠る侍の魂だけが残る島

天の山で両手を合わせれば、今の幸せ心に沁みる

天に召された人たちよ、遠い遠い空の上

平和な国を見守りたまえ

*硫黄の島よ 俺たちに何を語りかけるのか

硫黄の島よ 故郷はあなたの心にありますか

 

鎮魂の丘に咲いている、色とりどりの花びらが

風吹かれて、ゆれている

明日の希望を忘れずに、強く静かに咲いている

夏の夜空は万華鏡 南に輝く十字星

夜に目覚める満開の月下の美人が微笑みを

*繰り返し

この島で育った人々よ 戦が終わったそのあとも、

あなたの故郷はここにある

まぶたを閉じれば蘇る 心の奥に思い出を

硫黄の島よ 俺たちに何を語りかけるのか

硫黄の島よ 故郷はあなたの心に今もある

硫黄の島よ 安らかに

 

 

 

 

 

 

 

 

 

硫黄島での声「太陽」「風」「雨」「島」…..そして「猫」その4

〜…..そして猫〜

島猫に会いたい!

これが私の最初に硫黄島に行くきっかけです。

半年前の小さなワクワクは、大きな三日間の体験になりました。

摺鉢山

島の南にある文字通り擂鉢をさかさにしたような形をしている山。

島の先端にぽっかり山があるなんて、ちょっとユーモラスにも見えるのですが、

よくみると海に面した山の斜面はえぐり取られたように茶色くなっています。

アメリカ軍がここの海が真っ黒になるほどの艦隊を率いて、海から砲弾攻撃した跡です。

山がえぐられる程、攻撃は容赦なかったということです。

かつてはお椀形の緑色。

「こんな形になっちゃった…」山はその姿で語ります。

この頂上が「その3」でも書いた、陥落の印にアメリカ軍が星条旗を掲げたところです。

アメリカの戦勝慰霊碑があります。

肩にはVICTORY のVが。

そして旗を掲げたポールポイントもしっかりと残っています。

哀しいくらい空も海も碧いです。

 

 

どこにもお花やお線香やお供えものがありましたが、

ここにもアメリカから来た方たちが置いていったものがあります。鎖のついたネームプレートのようなもの、

革のベルト、中にはハサミに名前が書いてあるもの。それぞれに思いがあるのでしょう。

ぶら下がっているネームプレートたちをしゃらんしゃらんと風が揺らします。

その隣に、

日本の慰霊碑が。

そして、知らなかったのですが、硫黄島からも特攻隊が飛び立っていたそうです。

帰りの燃料は….

入れるはずありません。

…..手を合わせます。

日は変わり、

3日目の離島の前、時間があったので、

上陸海岸を歩かせてもらう事にしました。

 

白鳥はかなしからずや

空の青海のあをにも

染まずただよふ

若山牧水

 

……..白鳥はいるのかしら

そして、猫は….

 

その5に続きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

研修の最後は、離島前に少し時間があったので、上陸海岸を歩かせてもらうことにしました。

 

 

 

硫黄島での声「太陽」「風」「雨」「島」…..そして「猫」その3  

〜風〜

隊員の方が作った詩に「風はどこにでも行ける」

という言葉がありました。

たしかに、島に吹く風はすべてを知っています。

風になびく星条旗。一枚の写真はこの戦争の勝敗を決定するくらいの

強烈な感動とインパクトをアメリカ国民に与えました。

硫黄島の南にある摺鉢山が陥落したときに、星条旗を掲げる瞬間を撮ったものです。

長引く戦争に疲弊していた国民に「この戦争にきっと勝てる!」という希望を与えたのです。

事実、硫黄島での勝利は、アメリカのB29が日本の本土を空襲するのに飛び立つ飛行場を手に入れたことを意味します。

そこから空襲は止むこと無く、広島と長崎の原爆投下まで、一気に敗戦へと日本は突き進みます。

これは「米軍戦勝記念壁画」

良くみると、写真は6名ですが、レリーフは4名。

なぜでしょう。

光と闇の表裏。”英雄”とは何かと考えさせられるこの写真の背景のエピソード。

6名のうち3名は戦死。残りの3名は”英雄”として、戦争資金の国債を買うキャンペーンに連れ回されます。

映画「父親たちの星条旗」は史実に従ってその3人の兵士のその後の人生を描いて行きますが、

そのうちの一人は、今でいうPTSDとサバイバーギルトでアルコールに溺れていきます。

結果その兵士はこのレリーフを作る時に、そのような不名誉な事は、恥として外されたそうです。

もう一人が外された理由はわかりませんが、いずれにしても、悲劇としか言いようがありません。

もうひとつ、このレリーフに近づくと、銃弾で撃った穴が沢山あります。

硫黄島はアメリカの退役軍人の方や、遺族の方も慰霊のために訪れます。

ある人はこのレリーフを見て、讃えられてるのがこの人たちだけだと感じて、怒りで銃を発砲。レリーフは穴だらけになりました……

ナイフで掘った名前も沢山刻んであります。英雄はこの4人だけでは無いのだ、ここに刻むんだ。

固い岩に刻まれたNAME…NAME ……名前

レリーフは少し風化して表面は丸くなっているように見えましたが、一人一人に思いがあるのが痛いほどわかりました。

資料館には遺骨収集で集められたもの、武器、弾薬、手榴弾。悲しくなるのは、手榴弾が陶器の容れ物で作られたものもあって、鉄が無かったからでしょうけど、ほんとにそこらにある陶器に火薬を入れて持ち歩き、最後にはそれを破裂させるなんて…陶器の手榴弾は初めてみました。

他にも、島民の方たちが慌ただしい疎開命令でおうちに残してきた日常の器やお皿。資料、本や写真も沢山あり、特にアメリカの写真集は、当時の最高のカメラで腕のいい戦場カメラマンがフィルムで撮ったもの。瞬間を永遠に残すことに成功しています。先にも書いた2本の映画は、これらの写真を包帯の巻き方一つまで、正確に再現しているのがわかりました。

ショーケースのメガネ……その向こうのお顔の目は、何をみたのですか……

沈黙

我々も言葉なく、ゆっくりと見てまわることが出来ました。

色とりどりの花が咲いている「鎮魂の丘」や「平和記念公園」。

それぞれ天山と一緒で水への意味を深く持って、水をためて流れるような設計になっています。

作った方たちの思いも伝わります。

これは、「硫黄島戦没者顕彰碑」

無くなった方の出身地のそれぞれの石で出来ています。これをみると全国各地からこの島に来たことがわかります。

同郷、異郷、どんな会話を交わしたのでしょうか。

宝塚音楽学校時代、全国各地から来た同期生がすみれ寮で寝食を共にしました。北の青森の子と南の宮崎の子では

お国訛りも全然違っていて、青森のRK子は、あんまり寒くて口が動かないから「私、それ食べるから、あなた、それ食べなさい」が、

「わ、け、な、くぅ」になるんだよって教えてくれて、みんな大笑いしたり、宮崎の子が「だるい〜ってときは、よだき〜って言うだよ」って教えてくれたりしたことを思い出しました。

辛い壕の中でも、兵士たちにも違う方言が混ざり合い、笑い合う時間がきっとあったと思います。楽しい時間、笑い合う時間。歌う時間。恋する人を思う時間…..

 

〜すみれの花咲く頃〜  作詞白井鐵造

春すみれ咲き、春を告げる

春なにゆえ、人はなれを待つ

楽しく悩ましき春の夢、甘き恋

人の心酔わすそは、なれ、すみれ咲く春

すみれの花咲く頃、初めて君を知りぬ

君を思い、日毎夜ごと、悩みしあの日の頃

すみれの花咲く頃、今も心ふるう

忘れな君、我らの恋

すみれの花咲く頃

その4に続きます。

 

硫黄島での声「太陽」「風」「雨」「島」…..そして「猫」その2

「硫黄島での声 太陽、風、雨、島….そして猫」その2です。

その1はこちらに→http://un-seen.net/news/1870/

 

ここは慰霊の島でもあります。

硫黄島の戦い….1945年2月19日から、3月26日まで、一ヶ月と一週間のまさに死闘の記録。

あの時から時間を止めている島のそこここ…..

自衛隊の方が「部外講師島内研修」として、丁寧な説明を加えて島を巡って下さいました。

それは、私の知らないことばかりでした。

硫黄島には民間の人はほぼ入ることは出来ません。

現在は、航空自衛隊の方たち、建設業者、遺骨収容の方たちが滞在出来ます。

実際、この島に住んでいらした方ですら、現在簡単に島に入ることは出来ないという事実。

故郷なのに…..

今回、「部外講師」としてこの研修を受けられたことに感謝して、私が見たこと、聞いたことを真摯に書いていってみようと思います。

雨〜

この島に来た人は、かならず、天山の慰霊参拝からスタートします。

「硫黄島戦没者の碑」

厚生労働省の管轄です。天皇陛下がいらした時もここで参拝されました。

天井が吹き抜けになっているのは、水が無くて苦しんだ兵士たちが

潤沢に恵みの雨にあたれるようにとのことだそうです。

参拝は各自帽子を取って、自衛官のK野さんの号令「姿勢を正して、黙祷!」から

始まります。お線香とお花を供えて、手を合わせます。

たっぷりお水を飲んで下さい。

〜島〜

硫黄島の大きさは東京都の北区くらいだそうです。だけど、その位置が大きくこの島の運命を決定します。

グアム島と本州の真ん中に位置しているゆえ、この島での日本とアメリカの激戦が避けられないものになりました。

当時、島には沢山の人たちが住んでいて、資料館には小学校の集合写真や当時の村の様子がわかる手書きの地図もあります。

最高司令官の栗林忠道陸軍中将はこの島に着任してすぐに島民を疎開させます。結果この島では軍人同志の決戦になりました。

つまり、一般市民は死ななかった戦いです。

これが理由で、この島には様々な慰霊塔や記念碑がありますが、日米ともに慰霊することが出来る島になっています。それは、

一般市民が巻き込まれた戦地ではいわゆる敵国の慰霊碑を建てるのは心情としても難しいものがあるわけで、ここはそれが可能なのです。

あらためてこの島が特別な場なのだと思いました。

1985年に建立された再会慰霊碑には日本の国旗とアメリカの国旗が並んでおいてありました。

こちらは英語です。

“我々同志は死生を越えて、勇気と名誉とを以て戦った事を銘記すると共に、硫黄島での我々の犠牲を常に心に留め、且つ決して之れを繰り返す事のないように祈る次第である。”

アメリカの圧倒的な兵力と武器に対して、日本の守備兵力は約21,000名。そのうちの約20,000名がこの戦いで命を落としています。が、アメリカ軍は戦死6,821名・戦傷21,865名の計28,686名の損害で、太平洋戦争(大東亜戦争)後期の上陸戦でのアメリカ軍攻略部隊の戦死・戦傷者数が日本軍を上回った稀有な戦いであり、死闘だったのがわかります。

どうして、ここまで圧倒的勝利を予測していたアメリカ軍を手こずらせ、結果一ヶ月と一週間もこの島の陥落を伸ばせたのかというと、作戦を説明してもらうと、そういうことだったのかとわかります。

栗林忠道陸軍中将は、地下に司令室を作り、兵士を潜らせます。

壕を掘らせたのです。

海辺で戦わず、地下で待つ。

この壕に入ることが出来ました。

ここは、島の北にある医務科壕です。

沈黙してなお多くを物語る日常のものたち。

息遣い、人の気配が無いといったら嘘になります。

何よりも私をうちのめしたのは、硫黄島は火山でもあるので、いつも硫黄の匂いと共に、

地熱がものすごいのです。壕の奥に入ればもう数秒で顔から汗が吹き出します。

壁を触れば、「アチ!」と手を引っ込めてしまいます。

 

暑かっただろうに…..

 

壕の外に出て風が汗だくの我々を冷やしてくれるのですが、当時はどんなだったのだろうと思うと

やるせなくなります。

こちらは、兵団司令部壕。知将栗林中将が司令部をおいたところです。

それも壕の中です。

 

ここは壕の天井が低く、栗林中将の司令室は、157センチの私がギリギリ立てるくらいの高さです。

ですが、奥に入るときは、這いつくばって頭もガンガンぶつけながら匍匐前進しないと移動出来ません。ヘルメットが必須だったのがわかりました。

もちろん、地熱地獄。ここで、栗林中将は、兵士たちは、どんな思考を巡らせたのでしょう…..

資料室で、栗林中将が息子「太郎」ちゃんに書いた手紙の写真をみましたが、絵もお上手だったようで、挿絵が沢山。

そこには、家族思いのお父さんとしての文章しかありませんでした。

この方のご遺体はいまだわからないままです。品格を保ち、決して兵士たちに万歳攻撃はさせず、最後まで士気を鼓舞したそうです。

なぜ…..

本土に敵を上陸させないために、この島を1日でも長く死守する。

案内してくださったK野さんはほんとに良くお勉強されていて、いろいろなお話をしてくださいました。

書ききれないのが残念です。

壕の出口には今も日の丸が。

銃弾の跡。思ったよりも大きくて驚きました。

壕を出たあとの我々。ヘルメット、軍手、懐中電灯は必須。さすがに笑顔になれなかったです。

 

太陽〜

11月でも気温は湿気の無い夏のよう。

その太陽にさらされるままになっている、かつては火を吹き、島を轟かせていた鉄の塊たち。

顰蹙でしょうか、自然の中に居るそれらは、崇高な美しさすら感じます。

声が聞こえてくるし、音もずっと流れ続けてる。

鉄と草木が一体になれることがあるのですね。

最初はカメラを向けることすらためらわれたのですが、これを見た方が感じたことが次ぎに繋がるのかもしれません。

千鳥飛行場戦闘指揮所跡は、なんと飛行機の外側をコンクリートで硬め、使っていたようです。

なんとなく飛行機の機内ってわかりますか?

壁の日の丸…消えかけています。

これはトーチカ

今もこの中の銃口は上陸海岸に 向いています。

ここも吹きっさらし。なにも保護はされていません。

いつしか朽ち果てるまでここでずっと海を見ているのです。

クリント・イーストウッド監督の映画「父親達の星条旗(原題Flags of Our Fathers)」を観るとこの地下に潜っての

作戦がいかにアメリカ軍を驚かせたかわかります。

この中でずっと待機していてギリギリ目の前に敵が来るまで待っていた日本兵士。

波濤万里超えての上陸戦、しかし想定外の静寂の黒い浜を突き進まねばならないアメリカ兵の恐怖。

この兵士達を想像するとどうしていいかわからなくなり、

私の心は、そのまま風になってしまいそうです。

 

「椰子の実」 作詞:島崎藤村、作曲:大中寅二。

名も知らぬ 遠き島より
流れ寄る 椰子の実一つ

故郷の岸を 離れて
汝はそも 波に幾月

旧の木は 生いや茂れる
枝はなお 影をやなせる

われもまた 渚を枕
孤身の 浮寝の旅ぞ

実をとりて 胸にあつれば
新なり 流離の憂

海の日の 沈むを見れば
激り落つ 異郷の涙

思いやる 八重の汐々
いずれの日にか 国に帰らん

…..その3に続きます。

 

 

 

 

 

 

Kristinの言葉を訳しました。そして、theatreとは….

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我が師、Kristin Linklater氏が、「linklater Voice Center」の、Facebookタイムラインに先日長い文章を載せていました。
彼女は、11月13日パリで起きたテロ事件の2日後に行われた討論会に出席したようで、これはそこから帰国した直後に書かれたものです。
巨大な暴力の直後、無力感に打ちひしがれた思いと、それでいて
偉大なる詩人の詩を引用し、我々に問いかけている文章です。
世界が大きく変動しつつある今、私も思うこと、感じていることをどう表わしていいのか自問自答している過程の中、ここにある、「theatre」という言葉に大きく動かされました。
 
「theatre 」直訳すると「劇場」です。すぐに浮かぶイメージは、赤い緞帳、客席、照明、衣装
そして、舞台に立つアクターたち、台詞、動き、観客…….
もう少し大きく捉えたいと思い調べると、「theatre 」の語源は哲学用語で「テオリア」。そうなると、「観想」を持って見る、観ることによって深く考える場….というふうに考えられます。
クリスティンに最初に彼女から教えを受ける初日に、我々が言われた言葉は、
「はっきり言うけど、私はあなた達には興味はないのよ。私が興味があるのは、theatre だけ。theatre の可能性だけよ。」
「この2年間に渡る講師資格取得のあなたの目的が、自分のためだけだとしたら、はっきり言うけど落ちます。まず自分の足元から波紋のように広げなさい、自分の周りの小さなコミュニティへ、そしてそこからもう少し大きなコミュニティへ、そして大きなソサエティまで…そこに貢献する覚悟が無いなら、あなたは決して合格することは無いでしょう。」
この文章だけ読むと、彼女の教えを乞うために、あるものははるばる海を渡り、あるものは20年近い年月を費やして、ついにここまででたどりついた輩達を前に、いきなりそれは無いだろうと思うかもしれませんが、彼女の厳しく突き放し、それでいて大きな指針として私は居ると、威厳を持って宣言をしてくれたクリスティンを今も覚えています。
「theatre」
ある意味、最高条件の宝塚歌劇団で10年舞台に立たせてもらった私は幸せ者です。そこにはいわゆる劇場が完全にありました。
卒業して、20数年経つ今は、発表の場が、小学校の体育館であったり、お寺、古民家や画廊、スタジオラボです。幕は無いし、高低のある客席も無い、時折、彼女の言う「theare 」に貢献しているだろうかと帰り道に月に問いかけることがありました。でも、クリスティンの言う「theatre」が、「テオリア」「観ることによって深く考える場」だとしたら、ぶれてはいないと自分を奮い立たせたいのです。
クリスティンの言葉を訳しました。
偉大なる師が苦悶して自己に問いています。
しっかりと渡したかったので、時間がかかりましたが、もしよろしければ、「theatre」「voice」の意味を一緒に考えるきっかけになれば幸いです。
I have just returned from a Voice Colloquium in Paris which took place 2 days after the attacks in St. Denis – this area was also where the Colloquium took place. The event was titled La Pratique de la Voix sur la Scene. As you can imagine it was not easy to find the right things to say as the first speaker (and featured guest) on that Monday. However – I thought that the words that came to me might be worth repeating here:”Anything I say will be inadequate to the situation within which we have come together – and yet I must say something. On an immediate level our endeavor seems futile to me. How often have I said ‘Voice is communication; communication makes community; good communities with good communication and free voices build civilizations.’ And now voices are spewing hate as if hate and death were the purpose of existence. Cicely Berry – England’s most revered voice teacher – repeats over and over the quote from Thomas Middleton: ‘Violence prevails where words prevail not.’ It seems clear that words, of what we consider reason, have not prevailed. Why not? Might it be because they have not been spoken – in the higher realms of political interchange – in voices that have the ring of truth? A London journalist recently wrote: ‘Politicians are constitutionally programmed to fabricate authenticity.’ Which brings me to lines from W.B. Yeats’ poem written after WWI still ringing horribly true in the echo-chamber of today:
Things fall apart; the centre cannot hold.
Mere anarchy is loosed upon the world.
The blood-dimmed tide is loosed, and everywhere
The ceremony of innocence is drowned.
The best lack all conviction, while the worst
Are full of a passionate intensity.If there is anything we can contribute in the most indirect way on the side of life versus death, love versus hate, creation versus destruction then we must concentrate on how our voices can speak the deepest truths…each our own individual truth. And because theatre is our Art we must continue to ask: ‘How can we insist that our theatre holds the mirror up ever more courageously to reflect our times.’
No man is an island
Entire of itself.
Each is a piece of the continent,
A part of the main.
Each man’s death diminishes me
For I am involved in mankind.
Therefore, send not to know
For whom the bell tolls,
It tolls for thee. John DonneThis is not a moral reminder but a record of experience: we feel the loss of lives of people we don’t know. What are we meant to do with that feeling?

 

訳:

私は今さっき、St. Denisでのテロの二日後にパリで行われたPratique de la Voix sur la Scene. という討論会から帰ったところです。

St.Denisはまさにその討論会が行われた場所でした。

当然、賓客であり最初のスピーチをする立場であった自分は、今ここで何を話せばいいか考え、苦悶しました。だけれどもその時私の頭に浮かんだ言葉はここで復唱する価値があるのではないかと思うので、以下に記します。

「私がどんな言葉を口にしようと、ここに集まっている私達をとりまく状況に相応しいものとはならないでしょう。しかし私は何かしら言わねばなりません。即座なレベルにおいては、私達の努力は役に立たないものに思えます。

私は今まで何回『ヴォイスはコミュニケーションだ。コミュニケーションは共同社会を作る。良いコミュニケーションを伴う良い共同社会や自由なヴォイスは文明を作る。』と口にしてきたことでしょう。今現在いつくものヴォイスがまるで憎悪や死が存在意義であるかのように憎しみを吐き出しています。

 イギリスで最も尊敬されているヴォイス教師であるCicely BerryはThomas Middletonの引用を何度も何度も繰り返しています。

『暴力が勝つのは言葉が勝てない場所においてである。』

我々が道理と考える言葉は明白に負けてしまったように思えます。そう感じない理由などあるのでしょうか?彼らが高次元の政治的やりとりを真実の響きを伴って話していないからでしょうか?ロンドンの一人のジャーナリストが以下のように書きました。 『政治家は正当性をでっち上げるために本質上プログラムされている。』

これらの言葉を踏まえた上で今も力強く響く第一次世界大戦後に書かれたW.B. Yeatsの詩を引用します。

『形あるものはいつか壊れる。核というのは脆いものだ。

純然たる混沌が世界に解き放たれる。

血に染まった潮が引き、世界中で無垢の祭りは溺れさせられる。

全ての信念を失い、皆が皆激しい緊張に満ちる。」by W.B.Yeats

この生と死、そして創造VS破壊の戦いに何か遠回しな貢献をするならば、我々は最も深淵にある個人それぞれの真実に声を向けねばならないでしょう。

そしてtheatreこそが我々の芸術であるため、我々はこう問わねばならないのです。

『我々はtheatreが、時勢をこれまで以上に勇敢に反映させる鏡を持ち上げることをどのように求めていくのだろう』

「どのような人も独りでは完全な島とはなり得ない。

全てが大陸の一部であり、主体のほんと一部なのだ。

私は人類と同一であるが故、あらゆる人の死が私の一部を削り取る。

だから誰が鐘を鳴らしているか探そうとするな。

それはそなたのために鳴るのだ。」by John Donne

これはモラルを思い出させる詩ではなく、体験の記録なのです。

私達は見知らぬ人々の死を感じます。

そんな感情を受け止めて、我々は何を行っていくのだろうか?

                           translated by noriko tosaka & toshiharu tosaka

 

中村雅俊さんのこと….「原稿」

ここでの雅俊さんは、あの雅俊さんでは無くこの雅俊さんです。

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3月22日に上演した音楽朗読劇「あんしぃ〜ん」で、ご自身の学童疎開の体験を取材させて頂き、

当日はご本人にも出演して頂きました。おかげ様で、劇が終わった今でも、仲良くして頂いております。

雅俊さん、多才な趣味を持っておられ、その一つが、

「篆刻」手で石を掘って印を作っていらっしゃるそう。

私のも作って下さるというお言葉を頂き、お願いすることにしました!

「の」の字一文字の印です。

 なぜこれをお願いしたかというと、私のスタジオではお月謝制にしておりまして、

生徒さんたちには世に言うお月謝袋を作り手渡しております。

毎月頂いた印として、伊東屋さんでみつけたゴム印の「の」の字を押していたのですが、

雅俊さんにちゃんと石で掘って頂いたものを使うことが出来たら、今後も一回一回印を押す時に、様々な事に感謝をコメられるのではないかという思いもあって……。

いやいや、一言で印と言っても、奥が深く、最初雅俊さんから送られてきたのは、見本の手書きのデザインでありました。
しかも、朱文と白文とあるそうで、気軽にお願いします!と言ってしまった私、恐縮してしまいました。

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が、当のご本人は飄々とメールで教えて下さるのですが、「の」の字は「乃」の字がもとらしく、

丸みと角のバランスがあったりで、一生懸命私に似合う「の」の字を考えて下さったようです。

ありがたい…..

 私は漫画のお目目のように見える4番が気に入りお願いすることに。

10時と4時の方向に角もついていますが、丸みと強さの共生を感じたのも

これに惹かれた理由のひとつ。

うれしわくわくと出来上がる日が心待ちにしておりました。

そして、手元の届いた私の「の」の字です。

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 振り返ると、私が関わらせて頂いた劇は、アメリカ時代を含めて

様々な戦争体験をした方に直接にインタビューをさせて頂きました。

「A Thousand Cranes」では広島弁と監修を被爆者である村上啓子さんに。

「KAMIKAZE KATE」では、ロサンゼルス在住の特攻隊の生き残りでいらっしゃる

岡本春樹さん。

そして、「unseen ~あんしぃ〜ん」では、中村雅俊さんを初めとする、清島国民学校の卒業生の方たち….

どの方とも、戦争体験はおありなのですが、それに加え、

啓子さんはお菓子作りが得意で、何度も美味しいケーキを頂いたり、一緒に牛久のワイナリーで薔薇を見ながらお喋りしたり、

岡本さんはワインがお好きで、いつも素敵なインターネットで届くカードをアメリカから送ってくださって、文末はいつも「また美味しいワインを飲みましょう」(私はほぼ下戸なのに!)

雅俊さんに至っては、こんなふうに人生の大先輩として楽しく交流を持たせて頂き、

もしかして、私の劇をやる目的はこれなのかしらんと思ってしまうくらい、

良きご縁をつないで頂いています。

 雅俊さんは、初演の時も今回も、劇中に当時の少年だった人が今語るという演出で

お話をして頂きました。

再演のお願いをした時、ご本人から今回は原稿を読んで話したいという要請がありました。

演出上は時空の変化をあまり出したく無かったので、原稿無しが理想だったのですが、

やはり、原稿を読みたいというご希望です。

初演時は大きな会場でピンスポットの中、朗々とお話をしてくださいましたから、

今回は客席が近い古民家だしむしろ問題は無いだろう、しかし失礼ながら、初演から5年も経っているのだもの、ご本人だってもしかしたら暗唱は不安なのかもしれない….そう私は解釈して「はい、では原稿を読んで下さい」と

お返事しました。

 当日、雅俊さんが劇中で語り出した時、私はハッとしました。お話される内容が初演時とは違って、

最後にはしっかりとご自身の強い思いを語られていたのです。原稿を読みたいという意志は

この文章の現れだったのだと。

考えてみれば、5年前の上演の時は、いえ、アメリカ時代にだって、これらを上演していたときは、

私は「日本は戦争をしない」という前提の元に劇を作ることが出来ていたのに、

雅俊さんのお声をききつつ、今年2015年の今は、今までとは違うのだということに、

劇中の私は、愕然としてしまったのです。

 ここに、雅俊さんの許可を頂き、当日読まれた原稿を

添付させて頂きます。淡々と語られる口調が素敵なのですが、書かれた文章を読み直すことも、

大切な時代になりました。

「原稿」

小学校三年から六年生までの児童が、集団疎開をするようになったのは昭和十九年の夏からです。当時六年生だった私も八月十五日に上野駅をたって、疎開先である宮城県の秋保温泉に向いました。そして、奇しくも丁度一年後の昭和二十年八月十五日に終戦記念日を迎えたのです。その日のことをお話します。

私は中学一年生で学校は夏休みでしたが、夏期講習のために埼玉県新座市にある平林寺境内の宿舎で合宿していました。正午から始まった玉音放送は、宿舎前の広場で全員直立不動の姿勢で聞きました。雑音の多いラジオでよく聞き取れなかったのですが、日本が戦争に負けたのだ、ということは分かりました。必ず勝つと信じていた私達は、ただただ呆然とするだけでした。

その日の夕方、私達は広場で体育の先生を囲んで話を聞きました。「いずれアメリカの軍人が進駐してくるが、心配するな、体さえ鍛えておけば、必ず乗り越えられる」と先生は仰いました。かつて自宅に泥棒が忍び込んだ時、見事に背負い投げでねじ伏せた、という武勇談で知られた先生でしたので、その一言に元気付けられたことを覚えています。

高台にあったその広場から遠くの町を見ると、明かりがこうこぅと光っていました。戦時中は爆撃を受けないように電気の笠に黒い布をかけ、光が外に漏れないようにしていたために、街はいつも真っ暗でした。ですから「明るい町」は大変印象的だったのです。今にして思うと、その光は日本が平和になることを暗示する象徴だったのかもしれません。

しかし最近の政治の動きをみると、果たしてこの平和が続くのだろうかと不安を感じます。戦争ほど人を不幸にするものはありません。70年もの間、戦争に巻き込まれなかったのは先進国の中では日本だけだと最近の新聞に書いてありました。平和な日本を守るために、私達に何ができるか、皆さんと共に考え、行動しようではありませんか。そう誓って私の話を終わりにします。

3月22日までの歩み その12

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おかげ様で、3月22日、無事に「A Thousand Cranes 〜禎子と千羽鶴〜」「unseen〜あんしぃ〜ん〜」の二作品を

上演することが出来ました。協力してくださった方、そして世田谷区の瀬田四丁目まで

足を運んで下さった方、応援してくださった方、ありがとうございます。

いつもこうやって、最後は記念撮影。

作品を上演出来たことも嬉しいのですが、この日の出来事すべてが、なにやら遠い日のおばあちゃんちに遊びに行ったような時間になったのは、空間の持つ不思議さを実感する以外のなにものでもありません。

「空間がすべてを与える」

ロサンゼルスで勉強したステラ・アドラー校では、その教えを最初から最後まで徹底させます。

ちゃんと出来たかな?ステラ・アドラーに聞いてみたいです。

***

後日談

無事に上演出来て、気がつけば春休み。「あんしぃ〜ん」の元になった伯父のエッセーの北陸は、

北陸新幹線の開通と共に、近くなりました。

矢も盾もたまらず一泊で金沢まで行ってきましたが、その理由の1つは、

伯父が学徒動員で合宿したお寺に行ってみたかったのです。前にも紹介しましたが、手先が器用な伯父は、このような地図をエッセーの中に残していました。

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美川は、ほとんど町並みも変わっていなくて、遠縁の協力もあって、お寺は簡単にみつかりました。手書きの記録はそれだけ正確だったわけです。

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もしかしたら、住職がいて、当時の写真か何か残ってないか。

私は雨の中、ドキドキしながら、いきなりお寺を尋ねたのですが、残念ながら、対応して下さった若いお嫁さん(かな?)、当時の記録は残ってないとの事でした。まあ、仕方ない。遠い昔の話なのだ….

ふと帰りに振り返り、はっとします。

それは、伯父の絵を見ればわかります。

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ここだ、確かにここだ。伯父たち少年は、この場所にいたのだ。お腹を空かせて、それでも楽しさを見つけて。

私の胸には昭和を生きた人たちへのこよりを撚るような、ささやかな喜びと、こんなことでしかお礼が言えない歯痒さも一緒になってしまって、それでも、もう会えない人に会えたような….

 

夜行列車や、米原経由で何時間も列車を乗り継いで金沢に帰郷するたびに、祖父母の家で、美味しい美味しいとご飯を食べていた、母や伯父や叔母を思い出します。

あの頃の私はただの小さい少女ではありましたが、こんなふうに劇を作るということで、時空を少しだけ旅することが出来るようになったのよ。

一生懸命話しかけても、飢えを経験した伯父たちは、大喜びして丸いお膳を囲んでひたすら北陸の味を味わっているのです。

 

あ、雨で濡らしてはいけません。伯父の記録をかばんに深く入れて、遠縁が待っていてくれた車に戻ります。そこには今夜のごちそうを楽しみにしている、どれだけご飯たべても、まだ食うか!っていう息子二人が待っています。

長くなりました。読んでくださった方、ありがとうございました。新しい年度は、桜の花と共に始まりました。

 

 

 

3月22日への歩み その11

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故・渡辺武雄元名誉理事。音楽学校ではモダン・ダンスを習っていた私達は、渡辺先生と慕っていました。

先生は、「宝塚は故郷、家族のようなもの」と常々おっしゃっていて、その生涯を同窓名簿の編纂を使命とされ、

尽力を尽くされました。それは、日本国内だけでなく、アメリカに渡った元タカラジェンヌの名簿も作っていらっしゃいました。

ロサンゼルスで子育て真っ最中の私に、ある時お手紙を下さって、「登坂くん、アメリカにも、宝塚の先輩がいるから、お姉さんのように慕って、宝塚の繋がりを大切にしなさい」と、アメリカ版宝塚同窓名簿を送って下さったのです。

当時はまだそんなに海を渡ったジェンヌの消息はわからず、印刷にして1〜2枚だったと思います。

私は、文字通り、その後その宝塚の大先輩方に、それはそれはお世話になって、今でもその繋がりは宝物です。

特に、時凡子さまは、男の子二人かかえた私が、演劇学校に通っている頃、何度も息子を預かって下さり、母のように姉のように助けてくださいました。

 

その演劇学校時代、9.11直後のロサンゼルスで、ヒロシマの子供劇を上演するとき、私は頭を抱えました。アメリカの子供たちにどうやってこの劇を伝えたらいいのだろう。

主人公は白血病で死んでしまいます。ですが、悲劇だけを伝えるには、無理がありました。アメリカの子供たちは原爆で戦争を終わらせたと学習しています。

日本人の私が被害者的意識を持って演出しても、そこからは何も生まれない。

そうだ、私は宝塚出身じゃないか。音楽や、着物や、日舞、人の心に住む鬼は、引き抜きという舞台上で衣装を変えるということで、表現出来ないかしら….

そして、凡子さんにお願いして、日舞を振り付けして頂きました。

ハリウッドのど真ん中の演劇学校に、凛として着物姿で現れた凡子さんに、ロサンゼルスの仲間たちは、あっけにとられ、

「Noriko, who is she???」倫子、あれは一体誰なの?正座もままならないアメリカ人に、立ち振舞から始まって、

素敵な振りをつけて下さいました。舞台は大成功。1年で13回公演。1000名の貧困地区の子供たちを、無料招待することが出来ました。

 

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先に上げた渡辺先生の写真は、私がアメリカから帰国したばかりの2005年のお正月のものです。

これから、どこに行ったらいいのか、何をどうやって始めたらいいのか、まったく0の私に、

「登坂くん、ちゃんと歌劇団に帰国のご挨拶にいらっしゃい。」と、おっしゃって、

劇団内の、ご自身の小さなお部屋に案内してくださいました。

窓も無い部屋です。お正月にしてはあまりにも殺風景。

「登坂くん、君は絵が上手かったね〜。何か描いてくれないか?」

「はい!じゃ、先生、鏡餅を描きます。」

私が描いた鏡餅、先生はえらく気に入って下さって、「こりゃいいや、絵に描いた餅や!」と大笑いされたのが、

ほんとに懐かしい思い出です。

ご自身がアメリカでダンスを学ばれた頃や、ビデオも無い時代に地方の山奥までオープンリールを抱えて、伝承民謡や民舞を

身振り手振りで記憶して舞台に上げたときのお話などを沢山してくださって、

「登坂くん、いつも、ホワ〜イ?WHY? 何故?と考えることだよ」と、少年のようなキラキラした瞳でおっしゃったのです。

 

渡辺先生が繋いでくださった、凡子さんとのご縁。先日、凡子さんよりお便りと小包を頂き、

ご自身が在団中に着ていらしたお着物を3枚、私に送って下さいました。

どれも、それは美しいお着物です。ありがたく頂き、

22日はそのうちの一枚を着させて頂こうと思います。

初演から14年。旧小阪邸の美しい日本家屋そのままを残したその空間には、

きっと着物が映えると思います。

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追記:凡子さんと高尾山に登ったことがあります。小さい頃に、疎開されていたそうで、

ああ、この川、この道、このお店!と、それはそれは懐かしそうにされていました。

戦争中はせっかく音楽学校に合格しても、舞台に立てなかった宝ジェンヌも

沢山いたと聞きます。

 

さて、当日まであと5日です。

では、いよいよ…..

3月22日まで歩み その10

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和穂……エッセーを書いた伯父の名前

幸子……私の母

まさお….私の父

康子……到底一言では言えない私の恩人

たかし…..父母の死後、お世話になった叔父

ちょっと、私のお楽しみで、登場する子供には、激動の昭和を生きて、もっと生きて欲しかったのに、さっさと天国に行ってしまった

懐かしい人たちの名前を付けちゃいました。

最初の本読みで、その子たちがしゃべり、動き始めたときは、時空をさかのぼったような不思議な気持ち。

 

太郎くんというのも出てきますが、子供の代表のような気持ちで「太郎」と付けました。

一生懸命がんばっている彼が、人をいじめたり、殴ったりしてしまう背景には、何があったのか、想像してもらえるように。

そして、4ヶ月のレッスンを経ての、東都生協の平和のつどいでの劇は、おかげ様で、沢山の子供さん、

スタッフ、お母様たちも協力してくださり、無事上演することが出来ました。作品のモデルになっていただいた

小原玲さんにも写真とトークを、そして音楽は素敵なオーボエ奏者のtomocaさん。

丁度このblogも、その頃の様子をお知らせしたくて、始めたんでしたっけ。

もうかれこれ5年前ですね…….

 

第二次大戦中の疎開先の場面

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終わってみて、振り返ると、当時は言いたいこと、やりたいことがありすぎて、少し欲張りすぎたような気もします。

そして、時を経て、世田谷区の古民家、旧小坂邸に足を踏み入れた時、

ああ、この廊下を学童疎開児童の子供たちが動き回るような劇ができたらおもしろいだろうな

と、思っていたので、

今年戦後70年、思い切って「unseen〜あんしぃ〜ん〜」を、学童疎開児童の部分だけ抜粋して、朗読劇に書き直してみました。

 

今回の出演者は、私のスタジオに来てくれているアクターたち、一緒にヴォイスワークをやった

高校の先輩や同級生、そして、息子が小学校の頃から読み聞かせやPTA仲間の地域のママたち

そして、子供さんも協力してくれます。なんだかいろんな人が集まっていますが、

いいアンサンブルになってきています。

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この地域ママたちのテリトリーは多摩川の河原。

私が知っている多摩川の河原ではいつも、

多摩川で遊ぼう

多摩川で食べよう

多摩川で観察しよう

多摩川で何かを作ろう

そんな言葉が通例なのです。

悲しい言葉が続くことのないように、子供たちの居場所を作っている人たちです。

 

さて、次は当日の衣装のお話をしようと思います。

それは…..

 

3月22日までの歩み その9

DSCN5661北海道です!知床です!防寒着はすべて借り物。

アウトドア無縁の私、極寒の地に行くとわかっていて、薄手のセーターとちょっとしたジャケットでたかをくくっておりました。

(大反省)

あくまでも劇の取材だからと自分に

言い聞かせてますが、すっかり一面の雪と氷にウキウキであります。

この旅に出かける前、たかが荷物にゲームを入れようとしていたのを、

私はせっかくの大自然なのだからと、やめさせようとしたのですが、

アザラシ番長の小原さんは、「あ〜、登坂さん、持っていかせなさい。どーぞどーぞ」

とにかく、日頃ほったらかしの我が息子。ゲーム三昧の日々に、これでいいのかと悩む日々ではありましたが、ならば、持っていかせましょうと

出発しましたこの旅です。

たかは、「はい、これはたかくん」と手渡されたすごい望遠レンズ付きのカメラに大感動。バシャバシャと撮り始めます。

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小原さんは、著書「流氷の伝言」に、ご自身の子育ての体験や、子供たちが

「好き」を見つけてゆくことの大切さを書かれています。

ですから、たかがとにかく興味を持ったものを撮り始めるのが、私もおもしろく、

たとえば、雪の中の鹿の死骸にものすごい関心を示すわけですね。

死体、バシャバシャバシャ!

そして、アザラシツアーの一行は、もちろん、アザラシの赤ちゃんの写真をとるべく、

現地の方の舟に乗って、流氷を探すべくオホーツク海に出てゆくのです。P1050795

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それにしても息子、プロの方たちに、「う〜ん、いい写真撮るな〜」なんて言われながら、ひたすら無心に撮ってます。トド見つけたときは、舟の上から「トドだ〜!」って、バシャバシャバシャ!

いい表情とるじゃないのと、母感心。

これは、文字通り流氷の上に乗っけてもらってます。氷の下は水温間違いなく氷点下。

落ちたら心臓麻痺で死んじゃう温度。ひえ〜….でも、アイヌにアザラシ猟を習ったという漁師の方はオホーツクの海を知り尽くしていらして、

この方のガイドなら間違いない。人が乗れる氷がわかるらしく、その上をぴょんぴょん飛んでいらっしゃいました。

フリーランスのカメラマンという方は、ほんとにこういった準備は用意周到なのだと実感しました。大自然を相手にするということは、自分の力ではどうにも出来ないものを相手にするということなので、そこには、一切の奢りも油断も許されないのですね。

P1050734常に笑いにみちた撮影の旅ではあっても、彼らは、そこは絶対慎重に事を運ぶというのも、わかりました。

 

P1050745実際、流氷は昔のようにはなくて、ああ、もうアザラシの赤ちゃんには会えないのかな…劇をつくるときには、子供たちには、流氷は無くてね….なんて、事実をお話することになりそうだとおもってたら、いました!いたのです。オホーツクの海、一面の流氷に、一匹の赤ちゃんが!

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大自然、一面の氷の上に、ポツネンといた野生の赤ちゃん。

”命”という孤独を見たような気がしました。

それでも、お顔は可愛いのです。

バシャバシャバシャ、息子は無心にシャッターを切っています。

 

小原さんは、講演会で子供に絶滅の危機にある動物の話をしたあとに

作文を書いてもらうと、みんな地球防衛軍のような内容になってしまうとおっしゃいます。

「地球を守りたい」「自然を守りたい」

しかし、まずは、トンボが「好き」アザラシの赤ちゃんが「好き」….自分の「好き」を見つけ初めて、それを守りたいに繋がると。

「平和」の劇を小学校や中学校で上演したときも、アンケートを必ず取っています。するとほとんどの意見は

「かわいそうだった」「戦争は無くなって欲しい」という内容です。

でも、ある生徒さんが書いてくれた言葉が印象に残っています。

「禎子さんが白血病になっても、楽しいことや嬉しいことがあって、良かったと思いました。」

「戦争」=「悲しい」という感想を今を生きている子供たちに求めるのは、大人の勝手のような気もします。

私も「好き」だから劇をやっているのです。

楽しい旅でありました。

そういえば、帰りの最後の最後まで、たかは持ってきたゲームは一度も開きませんでした。

ゲームよりもおもしろい事があったからです。

 

さて、いよいよ脚本をまとめます。

悲しいだけじゃなく、子供たちが生き生きとして、「好き」なことをみつけるような内容にしよう。

まずは登場するこどもたちの名前はどうしようかな…..

それは……

 

 

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