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Noriko's Blog

Kristinの言葉を訳しました。そして、theatreとは….

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我が師、Kristin Linklater氏が、「linklater Voice Center」の、Facebookタイムラインに先日長い文章を載せていました。
彼女は、11月13日パリで起きたテロ事件の2日後に行われた討論会に出席したようで、これはそこから帰国した直後に書かれたものです。
巨大な暴力の直後、無力感に打ちひしがれた思いと、それでいて
偉大なる詩人の詩を引用し、我々に問いかけている文章です。
世界が大きく変動しつつある今、私も思うこと、感じていることをどう表わしていいのか自問自答している過程の中、ここにある、「theatre」という言葉に大きく動かされました。
 
「theatre 」直訳すると「劇場」です。すぐに浮かぶイメージは、赤い緞帳、客席、照明、衣装
そして、舞台に立つアクターたち、台詞、動き、観客…….
もう少し大きく捉えたいと思い調べると、「theatre 」の語源は哲学用語で「テオリア」。そうなると、「観想」を持って見る、観ることによって深く考える場….というふうに考えられます。
クリスティンに最初に彼女から教えを受ける初日に、我々が言われた言葉は、
「はっきり言うけど、私はあなた達には興味はないのよ。私が興味があるのは、theatre だけ。theatre の可能性だけよ。」
「この2年間に渡る講師資格取得のあなたの目的が、自分のためだけだとしたら、はっきり言うけど落ちます。まず自分の足元から波紋のように広げなさい、自分の周りの小さなコミュニティへ、そしてそこからもう少し大きなコミュニティへ、そして大きなソサエティまで…そこに貢献する覚悟が無いなら、あなたは決して合格することは無いでしょう。」
この文章だけ読むと、彼女の教えを乞うために、あるものははるばる海を渡り、あるものは20年近い年月を費やして、ついにここまででたどりついた輩達を前に、いきなりそれは無いだろうと思うかもしれませんが、彼女の厳しく突き放し、それでいて大きな指針として私は居ると、威厳を持って宣言をしてくれたクリスティンを今も覚えています。
「theatre」
ある意味、最高条件の宝塚歌劇団で10年舞台に立たせてもらった私は幸せ者です。そこにはいわゆる劇場が完全にありました。
卒業して、20数年経つ今は、発表の場が、小学校の体育館であったり、お寺、古民家や画廊、スタジオラボです。幕は無いし、高低のある客席も無い、時折、彼女の言う「theare 」に貢献しているだろうかと帰り道に月に問いかけることがありました。でも、クリスティンの言う「theatre」が、「テオリア」「観ることによって深く考える場」だとしたら、ぶれてはいないと自分を奮い立たせたいのです。
クリスティンの言葉を訳しました。
偉大なる師が苦悶して自己に問いています。
しっかりと渡したかったので、時間がかかりましたが、もしよろしければ、「theatre」「voice」の意味を一緒に考えるきっかけになれば幸いです。
I have just returned from a Voice Colloquium in Paris which took place 2 days after the attacks in St. Denis – this area was also where the Colloquium took place. The event was titled La Pratique de la Voix sur la Scene. As you can imagine it was not easy to find the right things to say as the first speaker (and featured guest) on that Monday. However – I thought that the words that came to me might be worth repeating here:”Anything I say will be inadequate to the situation within which we have come together – and yet I must say something. On an immediate level our endeavor seems futile to me. How often have I said ‘Voice is communication; communication makes community; good communities with good communication and free voices build civilizations.’ And now voices are spewing hate as if hate and death were the purpose of existence. Cicely Berry – England’s most revered voice teacher – repeats over and over the quote from Thomas Middleton: ‘Violence prevails where words prevail not.’ It seems clear that words, of what we consider reason, have not prevailed. Why not? Might it be because they have not been spoken – in the higher realms of political interchange – in voices that have the ring of truth? A London journalist recently wrote: ‘Politicians are constitutionally programmed to fabricate authenticity.’ Which brings me to lines from W.B. Yeats’ poem written after WWI still ringing horribly true in the echo-chamber of today:
Things fall apart; the centre cannot hold.
Mere anarchy is loosed upon the world.
The blood-dimmed tide is loosed, and everywhere
The ceremony of innocence is drowned.
The best lack all conviction, while the worst
Are full of a passionate intensity.If there is anything we can contribute in the most indirect way on the side of life versus death, love versus hate, creation versus destruction then we must concentrate on how our voices can speak the deepest truths…each our own individual truth. And because theatre is our Art we must continue to ask: ‘How can we insist that our theatre holds the mirror up ever more courageously to reflect our times.’
No man is an island
Entire of itself.
Each is a piece of the continent,
A part of the main.
Each man’s death diminishes me
For I am involved in mankind.
Therefore, send not to know
For whom the bell tolls,
It tolls for thee. John DonneThis is not a moral reminder but a record of experience: we feel the loss of lives of people we don’t know. What are we meant to do with that feeling?

 

訳:

私は今さっき、St. Denisでのテロの二日後にパリで行われたPratique de la Voix sur la Scene. という討論会から帰ったところです。

St.Denisはまさにその討論会が行われた場所でした。

当然、賓客であり最初のスピーチをする立場であった自分は、今ここで何を話せばいいか考え、苦悶しました。だけれどもその時私の頭に浮かんだ言葉はここで復唱する価値があるのではないかと思うので、以下に記します。

「私がどんな言葉を口にしようと、ここに集まっている私達をとりまく状況に相応しいものとはならないでしょう。しかし私は何かしら言わねばなりません。即座なレベルにおいては、私達の努力は役に立たないものに思えます。

私は今まで何回『ヴォイスはコミュニケーションだ。コミュニケーションは共同社会を作る。良いコミュニケーションを伴う良い共同社会や自由なヴォイスは文明を作る。』と口にしてきたことでしょう。今現在いつくものヴォイスがまるで憎悪や死が存在意義であるかのように憎しみを吐き出しています。

 イギリスで最も尊敬されているヴォイス教師であるCicely BerryはThomas Middletonの引用を何度も何度も繰り返しています。

『暴力が勝つのは言葉が勝てない場所においてである。』

我々が道理と考える言葉は明白に負けてしまったように思えます。そう感じない理由などあるのでしょうか?彼らが高次元の政治的やりとりを真実の響きを伴って話していないからでしょうか?ロンドンの一人のジャーナリストが以下のように書きました。 『政治家は正当性をでっち上げるために本質上プログラムされている。』

これらの言葉を踏まえた上で今も力強く響く第一次世界大戦後に書かれたW.B. Yeatsの詩を引用します。

『形あるものはいつか壊れる。核というのは脆いものだ。

純然たる混沌が世界に解き放たれる。

血に染まった潮が引き、世界中で無垢の祭りは溺れさせられる。

全ての信念を失い、皆が皆激しい緊張に満ちる。」by W.B.Yeats

この生と死、そして創造VS破壊の戦いに何か遠回しな貢献をするならば、我々は最も深淵にある個人それぞれの真実に声を向けねばならないでしょう。

そしてtheatreこそが我々の芸術であるため、我々はこう問わねばならないのです。

『我々はtheatreが、時勢をこれまで以上に勇敢に反映させる鏡を持ち上げることをどのように求めていくのだろう』

「どのような人も独りでは完全な島とはなり得ない。

全てが大陸の一部であり、主体のほんと一部なのだ。

私は人類と同一であるが故、あらゆる人の死が私の一部を削り取る。

だから誰が鐘を鳴らしているか探そうとするな。

それはそなたのために鳴るのだ。」by John Donne

これはモラルを思い出させる詩ではなく、体験の記録なのです。

私達は見知らぬ人々の死を感じます。

そんな感情を受け止めて、我々は何を行っていくのだろうか?

                           translated by noriko tosaka & toshiharu tosaka

 

中村雅俊さんのこと….「原稿」

ここでの雅俊さんは、あの雅俊さんでは無くこの雅俊さんです。

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3月22日に上演した音楽朗読劇「あんしぃ〜ん」で、ご自身の学童疎開の体験を取材させて頂き、

当日はご本人にも出演して頂きました。おかげ様で、劇が終わった今でも、仲良くして頂いております。

雅俊さん、多才な趣味を持っておられ、その一つが、

「篆刻」手で石を掘って印を作っていらっしゃるそう。

私のも作って下さるというお言葉を頂き、お願いすることにしました!

「の」の字一文字の印です。

 なぜこれをお願いしたかというと、私のスタジオではお月謝制にしておりまして、

生徒さんたちには世に言うお月謝袋を作り手渡しております。

毎月頂いた印として、伊東屋さんでみつけたゴム印の「の」の字を押していたのですが、

雅俊さんにちゃんと石で掘って頂いたものを使うことが出来たら、今後も一回一回印を押す時に、様々な事に感謝をコメられるのではないかという思いもあって……。

いやいや、一言で印と言っても、奥が深く、最初雅俊さんから送られてきたのは、見本の手書きのデザインでありました。
しかも、朱文と白文とあるそうで、気軽にお願いします!と言ってしまった私、恐縮してしまいました。

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が、当のご本人は飄々とメールで教えて下さるのですが、「の」の字は「乃」の字がもとらしく、

丸みと角のバランスがあったりで、一生懸命私に似合う「の」の字を考えて下さったようです。

ありがたい…..

 私は漫画のお目目のように見える4番が気に入りお願いすることに。

10時と4時の方向に角もついていますが、丸みと強さの共生を感じたのも

これに惹かれた理由のひとつ。

うれしわくわくと出来上がる日が心待ちにしておりました。

そして、手元の届いた私の「の」の字です。

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 振り返ると、私が関わらせて頂いた劇は、アメリカ時代を含めて

様々な戦争体験をした方に直接にインタビューをさせて頂きました。

「A Thousand Cranes」では広島弁と監修を被爆者である村上啓子さんに。

「KAMIKAZE KATE」では、ロサンゼルス在住の特攻隊の生き残りでいらっしゃる

岡本春樹さん。

そして、「unseen ~あんしぃ〜ん」では、中村雅俊さんを初めとする、清島国民学校の卒業生の方たち….

どの方とも、戦争体験はおありなのですが、それに加え、

啓子さんはお菓子作りが得意で、何度も美味しいケーキを頂いたり、一緒に牛久のワイナリーで薔薇を見ながらお喋りしたり、

岡本さんはワインがお好きで、いつも素敵なインターネットで届くカードをアメリカから送ってくださって、文末はいつも「また美味しいワインを飲みましょう」(私はほぼ下戸なのに!)

雅俊さんに至っては、こんなふうに人生の大先輩として楽しく交流を持たせて頂き、

もしかして、私の劇をやる目的はこれなのかしらんと思ってしまうくらい、

良きご縁をつないで頂いています。

 雅俊さんは、初演の時も今回も、劇中に当時の少年だった人が今語るという演出で

お話をして頂きました。

再演のお願いをした時、ご本人から今回は原稿を読んで話したいという要請がありました。

演出上は時空の変化をあまり出したく無かったので、原稿無しが理想だったのですが、

やはり、原稿を読みたいというご希望です。

初演時は大きな会場でピンスポットの中、朗々とお話をしてくださいましたから、

今回は客席が近い古民家だしむしろ問題は無いだろう、しかし失礼ながら、初演から5年も経っているのだもの、ご本人だってもしかしたら暗唱は不安なのかもしれない….そう私は解釈して「はい、では原稿を読んで下さい」と

お返事しました。

 当日、雅俊さんが劇中で語り出した時、私はハッとしました。お話される内容が初演時とは違って、

最後にはしっかりとご自身の強い思いを語られていたのです。原稿を読みたいという意志は

この文章の現れだったのだと。

考えてみれば、5年前の上演の時は、いえ、アメリカ時代にだって、これらを上演していたときは、

私は「日本は戦争をしない」という前提の元に劇を作ることが出来ていたのに、

雅俊さんのお声をききつつ、今年2015年の今は、今までとは違うのだということに、

劇中の私は、愕然としてしまったのです。

 ここに、雅俊さんの許可を頂き、当日読まれた原稿を

添付させて頂きます。淡々と語られる口調が素敵なのですが、書かれた文章を読み直すことも、

大切な時代になりました。

「原稿」

小学校三年から六年生までの児童が、集団疎開をするようになったのは昭和十九年の夏からです。当時六年生だった私も八月十五日に上野駅をたって、疎開先である宮城県の秋保温泉に向いました。そして、奇しくも丁度一年後の昭和二十年八月十五日に終戦記念日を迎えたのです。その日のことをお話します。

私は中学一年生で学校は夏休みでしたが、夏期講習のために埼玉県新座市にある平林寺境内の宿舎で合宿していました。正午から始まった玉音放送は、宿舎前の広場で全員直立不動の姿勢で聞きました。雑音の多いラジオでよく聞き取れなかったのですが、日本が戦争に負けたのだ、ということは分かりました。必ず勝つと信じていた私達は、ただただ呆然とするだけでした。

その日の夕方、私達は広場で体育の先生を囲んで話を聞きました。「いずれアメリカの軍人が進駐してくるが、心配するな、体さえ鍛えておけば、必ず乗り越えられる」と先生は仰いました。かつて自宅に泥棒が忍び込んだ時、見事に背負い投げでねじ伏せた、という武勇談で知られた先生でしたので、その一言に元気付けられたことを覚えています。

高台にあったその広場から遠くの町を見ると、明かりがこうこぅと光っていました。戦時中は爆撃を受けないように電気の笠に黒い布をかけ、光が外に漏れないようにしていたために、街はいつも真っ暗でした。ですから「明るい町」は大変印象的だったのです。今にして思うと、その光は日本が平和になることを暗示する象徴だったのかもしれません。

しかし最近の政治の動きをみると、果たしてこの平和が続くのだろうかと不安を感じます。戦争ほど人を不幸にするものはありません。70年もの間、戦争に巻き込まれなかったのは先進国の中では日本だけだと最近の新聞に書いてありました。平和な日本を守るために、私達に何ができるか、皆さんと共に考え、行動しようではありませんか。そう誓って私の話を終わりにします。

3月22日までの歩み その12

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おかげ様で、3月22日、無事に「A Thousand Cranes 〜禎子と千羽鶴〜」「unseen〜あんしぃ〜ん〜」の二作品を

上演することが出来ました。協力してくださった方、そして世田谷区の瀬田四丁目まで

足を運んで下さった方、応援してくださった方、ありがとうございます。

いつもこうやって、最後は記念撮影。

作品を上演出来たことも嬉しいのですが、この日の出来事すべてが、なにやら遠い日のおばあちゃんちに遊びに行ったような時間になったのは、空間の持つ不思議さを実感する以外のなにものでもありません。

「空間がすべてを与える」

ロサンゼルスで勉強したステラ・アドラー校では、その教えを最初から最後まで徹底させます。

ちゃんと出来たかな?ステラ・アドラーに聞いてみたいです。

***

後日談

無事に上演出来て、気がつけば春休み。「あんしぃ〜ん」の元になった伯父のエッセーの北陸は、

北陸新幹線の開通と共に、近くなりました。

矢も盾もたまらず一泊で金沢まで行ってきましたが、その理由の1つは、

伯父が学徒動員で合宿したお寺に行ってみたかったのです。前にも紹介しましたが、手先が器用な伯父は、このような地図をエッセーの中に残していました。

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美川は、ほとんど町並みも変わっていなくて、遠縁の協力もあって、お寺は簡単にみつかりました。手書きの記録はそれだけ正確だったわけです。

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もしかしたら、住職がいて、当時の写真か何か残ってないか。

私は雨の中、ドキドキしながら、いきなりお寺を尋ねたのですが、残念ながら、対応して下さった若いお嫁さん(かな?)、当時の記録は残ってないとの事でした。まあ、仕方ない。遠い昔の話なのだ….

ふと帰りに振り返り、はっとします。

それは、伯父の絵を見ればわかります。

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ここだ、確かにここだ。伯父たち少年は、この場所にいたのだ。お腹を空かせて、それでも楽しさを見つけて。

私の胸には昭和を生きた人たちへのこよりを撚るような、ささやかな喜びと、こんなことでしかお礼が言えない歯痒さも一緒になってしまって、それでも、もう会えない人に会えたような….

 

夜行列車や、米原経由で何時間も列車を乗り継いで金沢に帰郷するたびに、祖父母の家で、美味しい美味しいとご飯を食べていた、母や伯父や叔母を思い出します。

あの頃の私はただの小さい少女ではありましたが、こんなふうに劇を作るということで、時空を少しだけ旅することが出来るようになったのよ。

一生懸命話しかけても、飢えを経験した伯父たちは、大喜びして丸いお膳を囲んでひたすら北陸の味を味わっているのです。

 

あ、雨で濡らしてはいけません。伯父の記録をかばんに深く入れて、遠縁が待っていてくれた車に戻ります。そこには今夜のごちそうを楽しみにしている、どれだけご飯たべても、まだ食うか!っていう息子二人が待っています。

長くなりました。読んでくださった方、ありがとうございました。新しい年度は、桜の花と共に始まりました。

 

 

 

3月22日への歩み その11

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故・渡辺武雄元名誉理事。音楽学校ではモダン・ダンスを習っていた私達は、渡辺先生と慕っていました。

先生は、「宝塚は故郷、家族のようなもの」と常々おっしゃっていて、その生涯を同窓名簿の編纂を使命とされ、

尽力を尽くされました。それは、日本国内だけでなく、アメリカに渡った元タカラジェンヌの名簿も作っていらっしゃいました。

ロサンゼルスで子育て真っ最中の私に、ある時お手紙を下さって、「登坂くん、アメリカにも、宝塚の先輩がいるから、お姉さんのように慕って、宝塚の繋がりを大切にしなさい」と、アメリカ版宝塚同窓名簿を送って下さったのです。

当時はまだそんなに海を渡ったジェンヌの消息はわからず、印刷にして1〜2枚だったと思います。

私は、文字通り、その後その宝塚の大先輩方に、それはそれはお世話になって、今でもその繋がりは宝物です。

特に、時凡子さまは、男の子二人かかえた私が、演劇学校に通っている頃、何度も息子を預かって下さり、母のように姉のように助けてくださいました。

 

その演劇学校時代、9.11直後のロサンゼルスで、ヒロシマの子供劇を上演するとき、私は頭を抱えました。アメリカの子供たちにどうやってこの劇を伝えたらいいのだろう。

主人公は白血病で死んでしまいます。ですが、悲劇だけを伝えるには、無理がありました。アメリカの子供たちは原爆で戦争を終わらせたと学習しています。

日本人の私が被害者的意識を持って演出しても、そこからは何も生まれない。

そうだ、私は宝塚出身じゃないか。音楽や、着物や、日舞、人の心に住む鬼は、引き抜きという舞台上で衣装を変えるということで、表現出来ないかしら….

そして、凡子さんにお願いして、日舞を振り付けして頂きました。

ハリウッドのど真ん中の演劇学校に、凛として着物姿で現れた凡子さんに、ロサンゼルスの仲間たちは、あっけにとられ、

「Noriko, who is she???」倫子、あれは一体誰なの?正座もままならないアメリカ人に、立ち振舞から始まって、

素敵な振りをつけて下さいました。舞台は大成功。1年で13回公演。1000名の貧困地区の子供たちを、無料招待することが出来ました。

 

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先に上げた渡辺先生の写真は、私がアメリカから帰国したばかりの2005年のお正月のものです。

これから、どこに行ったらいいのか、何をどうやって始めたらいいのか、まったく0の私に、

「登坂くん、ちゃんと歌劇団に帰国のご挨拶にいらっしゃい。」と、おっしゃって、

劇団内の、ご自身の小さなお部屋に案内してくださいました。

窓も無い部屋です。お正月にしてはあまりにも殺風景。

「登坂くん、君は絵が上手かったね〜。何か描いてくれないか?」

「はい!じゃ、先生、鏡餅を描きます。」

私が描いた鏡餅、先生はえらく気に入って下さって、「こりゃいいや、絵に描いた餅や!」と大笑いされたのが、

ほんとに懐かしい思い出です。

ご自身がアメリカでダンスを学ばれた頃や、ビデオも無い時代に地方の山奥までオープンリールを抱えて、伝承民謡や民舞を

身振り手振りで記憶して舞台に上げたときのお話などを沢山してくださって、

「登坂くん、いつも、ホワ〜イ?WHY? 何故?と考えることだよ」と、少年のようなキラキラした瞳でおっしゃったのです。

 

渡辺先生が繋いでくださった、凡子さんとのご縁。先日、凡子さんよりお便りと小包を頂き、

ご自身が在団中に着ていらしたお着物を3枚、私に送って下さいました。

どれも、それは美しいお着物です。ありがたく頂き、

22日はそのうちの一枚を着させて頂こうと思います。

初演から14年。旧小阪邸の美しい日本家屋そのままを残したその空間には、

きっと着物が映えると思います。

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追記:凡子さんと高尾山に登ったことがあります。小さい頃に、疎開されていたそうで、

ああ、この川、この道、このお店!と、それはそれは懐かしそうにされていました。

戦争中はせっかく音楽学校に合格しても、舞台に立てなかった宝ジェンヌも

沢山いたと聞きます。

 

さて、当日まであと5日です。

では、いよいよ…..

3月22日まで歩み その10

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和穂……エッセーを書いた伯父の名前

幸子……私の母

まさお….私の父

康子……到底一言では言えない私の恩人

たかし…..父母の死後、お世話になった叔父

ちょっと、私のお楽しみで、登場する子供には、激動の昭和を生きて、もっと生きて欲しかったのに、さっさと天国に行ってしまった

懐かしい人たちの名前を付けちゃいました。

最初の本読みで、その子たちがしゃべり、動き始めたときは、時空をさかのぼったような不思議な気持ち。

 

太郎くんというのも出てきますが、子供の代表のような気持ちで「太郎」と付けました。

一生懸命がんばっている彼が、人をいじめたり、殴ったりしてしまう背景には、何があったのか、想像してもらえるように。

そして、4ヶ月のレッスンを経ての、東都生協の平和のつどいでの劇は、おかげ様で、沢山の子供さん、

スタッフ、お母様たちも協力してくださり、無事上演することが出来ました。作品のモデルになっていただいた

小原玲さんにも写真とトークを、そして音楽は素敵なオーボエ奏者のtomocaさん。

丁度このblogも、その頃の様子をお知らせしたくて、始めたんでしたっけ。

もうかれこれ5年前ですね…….

 

第二次大戦中の疎開先の場面

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終わってみて、振り返ると、当時は言いたいこと、やりたいことがありすぎて、少し欲張りすぎたような気もします。

そして、時を経て、世田谷区の古民家、旧小坂邸に足を踏み入れた時、

ああ、この廊下を学童疎開児童の子供たちが動き回るような劇ができたらおもしろいだろうな

と、思っていたので、

今年戦後70年、思い切って「unseen〜あんしぃ〜ん〜」を、学童疎開児童の部分だけ抜粋して、朗読劇に書き直してみました。

 

今回の出演者は、私のスタジオに来てくれているアクターたち、一緒にヴォイスワークをやった

高校の先輩や同級生、そして、息子が小学校の頃から読み聞かせやPTA仲間の地域のママたち

そして、子供さんも協力してくれます。なんだかいろんな人が集まっていますが、

いいアンサンブルになってきています。

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この地域ママたちのテリトリーは多摩川の河原。

私が知っている多摩川の河原ではいつも、

多摩川で遊ぼう

多摩川で食べよう

多摩川で観察しよう

多摩川で何かを作ろう

そんな言葉が通例なのです。

悲しい言葉が続くことのないように、子供たちの居場所を作っている人たちです。

 

さて、次は当日の衣装のお話をしようと思います。

それは…..

 

3月22日までの歩み その9

DSCN5661北海道です!知床です!防寒着はすべて借り物。

アウトドア無縁の私、極寒の地に行くとわかっていて、薄手のセーターとちょっとしたジャケットでたかをくくっておりました。

(大反省)

あくまでも劇の取材だからと自分に

言い聞かせてますが、すっかり一面の雪と氷にウキウキであります。

この旅に出かける前、たかが荷物にゲームを入れようとしていたのを、

私はせっかくの大自然なのだからと、やめさせようとしたのですが、

アザラシ番長の小原さんは、「あ〜、登坂さん、持っていかせなさい。どーぞどーぞ」

とにかく、日頃ほったらかしの我が息子。ゲーム三昧の日々に、これでいいのかと悩む日々ではありましたが、ならば、持っていかせましょうと

出発しましたこの旅です。

たかは、「はい、これはたかくん」と手渡されたすごい望遠レンズ付きのカメラに大感動。バシャバシャと撮り始めます。

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小原さんは、著書「流氷の伝言」に、ご自身の子育ての体験や、子供たちが

「好き」を見つけてゆくことの大切さを書かれています。

ですから、たかがとにかく興味を持ったものを撮り始めるのが、私もおもしろく、

たとえば、雪の中の鹿の死骸にものすごい関心を示すわけですね。

死体、バシャバシャバシャ!

そして、アザラシツアーの一行は、もちろん、アザラシの赤ちゃんの写真をとるべく、

現地の方の舟に乗って、流氷を探すべくオホーツク海に出てゆくのです。P1050795

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それにしても息子、プロの方たちに、「う〜ん、いい写真撮るな〜」なんて言われながら、ひたすら無心に撮ってます。トド見つけたときは、舟の上から「トドだ〜!」って、バシャバシャバシャ!

いい表情とるじゃないのと、母感心。

これは、文字通り流氷の上に乗っけてもらってます。氷の下は水温間違いなく氷点下。

落ちたら心臓麻痺で死んじゃう温度。ひえ〜….でも、アイヌにアザラシ猟を習ったという漁師の方はオホーツクの海を知り尽くしていらして、

この方のガイドなら間違いない。人が乗れる氷がわかるらしく、その上をぴょんぴょん飛んでいらっしゃいました。

フリーランスのカメラマンという方は、ほんとにこういった準備は用意周到なのだと実感しました。大自然を相手にするということは、自分の力ではどうにも出来ないものを相手にするということなので、そこには、一切の奢りも油断も許されないのですね。

P1050734常に笑いにみちた撮影の旅ではあっても、彼らは、そこは絶対慎重に事を運ぶというのも、わかりました。

 

P1050745実際、流氷は昔のようにはなくて、ああ、もうアザラシの赤ちゃんには会えないのかな…劇をつくるときには、子供たちには、流氷は無くてね….なんて、事実をお話することになりそうだとおもってたら、いました!いたのです。オホーツクの海、一面の流氷に、一匹の赤ちゃんが!

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大自然、一面の氷の上に、ポツネンといた野生の赤ちゃん。

”命”という孤独を見たような気がしました。

それでも、お顔は可愛いのです。

バシャバシャバシャ、息子は無心にシャッターを切っています。

 

小原さんは、講演会で子供に絶滅の危機にある動物の話をしたあとに

作文を書いてもらうと、みんな地球防衛軍のような内容になってしまうとおっしゃいます。

「地球を守りたい」「自然を守りたい」

しかし、まずは、トンボが「好き」アザラシの赤ちゃんが「好き」….自分の「好き」を見つけ初めて、それを守りたいに繋がると。

「平和」の劇を小学校や中学校で上演したときも、アンケートを必ず取っています。するとほとんどの意見は

「かわいそうだった」「戦争は無くなって欲しい」という内容です。

でも、ある生徒さんが書いてくれた言葉が印象に残っています。

「禎子さんが白血病になっても、楽しいことや嬉しいことがあって、良かったと思いました。」

「戦争」=「悲しい」という感想を今を生きている子供たちに求めるのは、大人の勝手のような気もします。

私も「好き」だから劇をやっているのです。

楽しい旅でありました。

そういえば、帰りの最後の最後まで、たかは持ってきたゲームは一度も開きませんでした。

ゲームよりもおもしろい事があったからです。

 

さて、いよいよ脚本をまとめます。

悲しいだけじゃなく、子供たちが生き生きとして、「好き」なことをみつけるような内容にしよう。

まずは登場するこどもたちの名前はどうしようかな…..

それは……

 

 

3月22日までの歩み その8

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「一日を愛し、一年を憂い、千年に思いを馳せる」

桃井和馬さんが次世代に伝える言葉として著書にかかれていた、ご本人の承諾を得て、これを全体のテーマに決めました。一日と、一年と、千年の3つの時間軸が融合するような話。最後は融合して悠久の流れ。

世田谷パブリックシアターの助言、「抽象的な表現のほうが大きなメッセージを伝えられる」ということも頭のどこかにありました。

千年は抽象的な表現でいこう。

そして、一年は、一年は……伯父のエッセーのラストに繋がるような子供たちの一年…..

 

学童疎開だ!

 

そうだ、息子のトシ達6年生が作った劇は「学童疎開」」だったじゃないか!

丁度その年は、2009年 戦後65年ということで、東京新聞に毎週日曜日に「焦土からの出発」が連載されていました。編集委員の田中哲男さんが、当時の様子を取材して、記事にしていらして、毎回毎回、力強い内容でした。

その最終回は、「秋保温泉 疎開物語 正座してわびた恩師たち」

私が合致したのは、この記事です。IMG_4027

しかも、願ってもない、田中さんは記事の中で学童疎開を体験した方達を

探し当てて、取材しています。この人たちに会って話を聞かなくちゃいけない!

東京新聞社につてなどありませんから、直接電話していきなり突入、田中哲男さんに会いに行きました。

田中さん、ありがたいことに、ご自身が取材した方たちを呼んで下さり、

私はその数日後に学童疎開体験者の皆さんに会って取材することが出来ました。

私が知りたかったのは、当時の子供たちがどんな事を感じて、どんな事を体験したのか。

8月15日のその日、何を感じて、何を思ったのか。

みなさんからの答えは、じつに素朴で単純な事でした。

戦争が終わったから、悲しかったかというと、そうではない。よくわからなかったのが本当です。それよりも、女の子は、「スカート履きたい!」って思ったり。

 

テーマの中の「一年」がなんとなく形が見えて来ました。では、「一日」は、キャストとは別の、一般の人が

劇中淡々と、「一日の幸せ」を語ってもらうのはどうだろう。

ひとりは母親、ひとりは子供、そして三人目は、この取材で

出会った、学童疎開体験者の中村雅俊さんに、8月15日の一日を語ってもらう。

雅俊さんは、偶然にも、私が小中高を過ごした湘南の藤沢の方でした。取材のために、故郷藤沢に行けるのも、私の楽しみ。

まるで亡くなった父母が引き寄せるようです。IMG_3736

 

因みに、中村雅俊さんは今回の3月22日の朗読劇にも出演してくださいます。先日、5年ぶりに藤沢でお会いしました。お元気でいらして、出演を快諾して下さいました。

さて、パズルはどんどん埋まってゆきます。

では、「千年」のテーマはどうするか、どういう話を織り込んでゆくか。

 

丁度、桃井さんからのお知らせで、写真家の方たちのプロジェクト

「Eye Witness」という企画があるというので、行ってみることにしました。

当時、何人かの写真家の方たちが集まって、その写真とトークで、

この地球に何が起こっているのかを、お話されるというのです。

そこで、アザラシの赤ちゃんを撮っていらっしゃる動物写真家の小原玲さんが話されて、流氷が溶けて、赤ちゃんが育たない実情を離されました。

地球の気候が変わってしまい、氷が無いのです。千年後の地球には流氷もアザラシもいないのではないでしょうか…..

 

千年の時間軸で写真家とアザラシの生み育てる母が対話しつつ……

 

イメージが浮かんだら、いてもたってもいられません。

小原さんに聞きました。

「すみません、小原さんがアザラシの赤ちゃんを撮っていらっしゃるところを取材したいのですが」

みなさん、冗談と思うかもしれませんが、普段は節約して家族旅行で温泉すら行かない私が、劇を作る取材だからと、流氷のある、カナダのマドレーヌ島まで往く決心をします。

が、

その年は、いい流氷が出来てなくて、ツアーはキャンセル。

飛行機チケットまで取ったのに、がっかり。

ところが、小原さんが電話でこうおっしゃいます。

「登坂さん、まだ可能性はあります。知床の流氷があるかもしれません。」

 

息子たちに私は小さい頃から、キャッチボールとか、キャンプとか、父親なら得意だろうという類の事はやってあげたことがありません。

アウトドアは無縁。男の子にとって、冒険とか大自然との体験とか、させてあげたいと思いながらも、私にそういった興味がないから、

無縁でした。知床の流氷!これは絶好の機会。としは何かの用事で行けなかったので、たかを連れてゆくことにしました。小原さんのアザラシの赤ちゃんの写真の取材には、

アザラシに魅せられた方たちが全国からカメラ持って集まります。私が知りたいのは、アザラシの赤ちゃんを撮る写真家です。目的は違っても、

ちゃっかり私はそのツアーに息子ともども入れてもらうことにしました。

この旅はほんとに私とたかにとって、忘れられない旅になります。

それは……

 

 

 

3月22日まで歩み その7

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中村紀子さん。

お母さん、主婦 世田谷区在住。

たまたま地元中学校体育館でやった「A Thousand Cranes〜禎子と千羽鶴〜」を観てくださっていました。

 

毎年手作り味噌を作っちゃう紀子さん。

じつは、東都生協の当時は理事をされていて、

「平和のつどい」という企画プロデューサーであったということを知ったのは、

知り合ってだいぶ経ってからの事でした。

あとから、聞けば、息子がお世話になっている小学校のPTAヴォランティア

読み聞かせグループの「モーニングスープ」の発起人。

紀子さんが私の活動を見つけて下さったのも、

「二子玉川生活」というblogで、地域情報を発信している主婦の方の情報。

舞台活動からかけ離れて子育てしていた私に、結果舞台に作品を

乗せるチャンスを下さったのは、この二子玉近隣を愛している地域の

お母さんパワーでありました。

東都生協から予算と劇場を提供される企画の初ミーティングは

地域の図書館の上の和室だったと思います。

 

ところが、この企画は企画会議で、却下。

流れてしまいました。

しかし、紀子さん、粘り強い!

もう一年たって、実現されます。

私にとってははじめての、予算がついた劇となります。

「A Thousand Cranes 〜禎子と千羽鶴〜」の台本を持って

嬉々として、紀子さんに会いに行きます。ところが、意外にも紀子さんはこう言います。

「倫子さん、他の作品でもいいですよ」

 

これまで、同じ作品を扱うにあたって、毎回違った形で

上演してはいましたが、毎年やっていると、どこかで、ああまただ、という甘えと

焦りが生じます。

ちょうど、先にも書きましたが、もろもろ壁にぶち当たってあがいていたので、

これは、嬉しい言葉でした。

最初からのオリジナルを書きたい!!

 

東都生協からの条件はこうでした。

*4月から会員の子供たちで劇をやってみたい子を募集する。

*その演劇体験のまったく無い子供たちを4ヶ月トレーニングして、舞台にあげる。

*「平和のつどい」という企画に付随した作品だから、内容は「平和」をテーマにして欲しい。

 

そうなると、登場人物の人数は最終的には募集してみないとわかりません、しかも、

子供たちが主役の話です。子供たちが男の子も女の子も、20人来ても、5人でも対応出来る内容の必要があります。

 

伯父さんのエッセーだ。あのラストシーンはぴったりじゃないか!!

 

ただ、伯父のエッセーは当時の県立金沢第一中学3年生の男の子たちです。

募集する年齢は小学校中学年から中学生まで。年齢を下げなくてはなりません。

この頃、東京新聞ではおもしろい企画が毎週日曜日に載っていました。

こういう時はパズルが1つ1つ音をたてるようにはまり始める時です。

その東京新聞の記事が、私のやりたいことと、完全に合致しました。

それは……

 

 

3月22日までの歩み その6

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「登坂さん、このたびの一世田谷パブリックシアター般公募に、応募ありがとうございました。」

へ〜、こんなふうに応募者全員に電話して結果報告するんだな、企画側も大変だな….などと思いつつ、次の言葉を待ちます。

「残念ながら、今年度の作品は◯◯劇団の◯◯◯◯と決まりました。」

あ〜、まあそうだろうな。

でも、内心ちょっぴりがっかりしつつ、

「そうですか、どうもありがとうございました。」

受話器を置こうとすると、

「待って下さい。じつは、登坂さんの「A Thousand Cranes 〜禎子と千羽鶴〜」は最後の2作品まで残りまして…」

「!……. 」

「特に最初の戦争の足音のなど、力強い表現があり、高く評価されました。選考委員の中には強くこの作品を押す人も何人かいて、最後の最後まで揉めました。」

 

落選への落胆よりも、私にとっては、この「高く評価された」という言葉だけがこだまして、

そうなんだ、自分が書いたものが、高く評価されたのだ。

当時は、息子二人連れて、まったく先の見えない時だったので、嬉しくない訳ありません。むしろ救いの言葉でありました。

涙声になってしまって、何度も何度もお礼を言って、

担当の方が電話を切ろうとした時、

「あ、ちょっと待って下さい。1つ聞かせて下さい。その劇団の作品と、私の作品の、採用不採用の最後の一点は何だったのでしょうか?」

 

答えは、「一点、公的な場所で、ヒロシマという言葉が直接的過ぎるということです。もっとなにか比喩や暗喩を持って

抽象的に表現されていれば……」

 

電話を切ったあとも、私は単純に喜んでいました。ポカンとしているとしとたかの前で、泣きながら、「やった〜!!やった〜!!」ダンスを踊ってしまっています。

そして、ふと思うのでした。

 

なぜ、ヒロシマだとイケナイのかしら?

 

ここで、私が言いたいのは、公的な場所への避難ではありません。たしかに、様々な作品が

そういった見事な比喩的な表現を成功させて、メッセージを送り出しています。

ただ、私の疑問は、このように移行します。

 

でも、直接的な、わかりやすい表現でもいいのではないかな?

 

その後、私は世田谷区の中学校や、区民センター、江戸川区の平和団体など、

オファーがあれば、どこでも飛んでいって、上演し続けました。

が、問題は……

 

予算が無い。

 

上演の機会があればあるほど、良いものをつくりたい欲求が高まるのと、予算が無いという現実。

この頃は、ひとり親として区からも助成してもらっていましたし、

それでも、上演の依頼をもらえば、持ち出しでもなんでもこっちを優先してしまう己。

 

そんな時に、初めてのスポンサーの可能性が出てきました!

そのプロデューサーは、意外なところにいたのです!

 

それは…..

 

 

 

 

3月22日までの歩み その5

CIMG2730それは……

と、引っ張っていて、すみません!この叔父のエッセーのラストシーンこそが

こんど朗読劇に脚色して上演する「unseen 〜あんしぃ〜ん〜」

の引き金になりましたので、ここで書いちゃうとネタバレになりますんで、

またいつかちゃんと書きますが、

少年達の8月15日は、読めば読むほど、生きた絵として浮かび上がってきます。声が聞こえるようなのです。

 

戦争や平和の劇を上演していると、観る側の、こうであって欲しいという要求に苦しくなることがあります。ですが、真実は意外にもあっけらかんとしていたり、楽しい時間があったり、残酷であったり….

これ、いつか物語にしてみたいな……そんな考えがふと浮かびました。

 

この頃、私はアメリカからずっと上演している劇がありました。

それは「A Thousand Cranes 」という題名で、アメリカ人の劇作家が書いたヒロシマの折鶴の少女のお話です。

とはいっても、この頃は帰国したばかりで、生活もままならない頃で、舞台を打つというよりは、

教会や小学校の体育館でやらせてもらっている、それが精一杯でした。

ある日、あるママ友が、「登坂さ〜〜〜〜ん!!!」って、はあはあ言って一枚の紙を持って来ます。

「これ、これ、ねえ、登坂さんがやっている劇、応募してみたら?」

それは、世田谷パブリックシアターの一般公募の募集でした。これに選ばれたら、

憧れのシアタートラムという劇場で、上演されます。しかも、劇場を借りる金額の心配も無いし、

告知は世田谷区でやってくれる!夢のようです!

しかし、問題は「A Thousand Cranes」は、作者はキャサリン・S・ミラーさん。私のオリジナルではありません。

それに、子供劇として書かれていますから、上演時間が30分強。作品として応募するなら、せめて1時間は欲しい。

しかも、締め切りは明日。

子供たちにご飯あげて、お風呂入れて、寝かしつけて…..

真夜中に考えます。

まあ….無理だな。

劇場……

それは、素晴らしい神聖な場所です。舞台と客席と、照明と、音楽….

人間の動きと声によってその空間は魔法のようになります。

宝塚にいたころは当たり前のように劇場に立たせてもらっていた自分。

退団してみて、そのありがたさを痛感するわけです。

 

やれやれ…..でも、一冊の写真集に手が伸びます。

森住卓さんの写真集。チェルノブイリで生まれた赤ちゃんの写真。

赤ちゃんと言っていいのか…..

産んだ母親はその赤ちゃんを見て、叫び声を上げて逃げてしまったと解説にあります。

「誰がこのような姿で生まれたいだろう…….」

 

数分後、PCを開き、キーを打ち始めます。書いてみよう。30分の原作に、そこに行きつくまでの

この目で見て体験した、真実の話をそのまま演劇の手法を用いて、付け足したらどうだろう。そうだ、アメリカで体験したそのものを

語る女性がいて、そのまま、作品を演じるという形に脚色してみよう。淡々と語ってゆくのだ。シンプルに。

明け方に出来た原稿を、ママ友が握りしめて持ってきてくれた

応募用紙と一緒に三軒茶屋の世田谷パブリックシアターに持って行きました。

締め切りギリギリ!

やるだけの事はやったんだから、これでいいや。

 

そして、一ヶ月後、世田谷パブリックシアターの担当の方から電話がかかってきました。

それは…….

 

 

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