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Noriko's Blog - 月別アーカイブ: 2015年2月

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3月22日までの歩み その5

CIMG2730それは……

と、引っ張っていて、すみません!この叔父のエッセーのラストシーンこそが

こんど朗読劇に脚色して上演する「unseen 〜あんしぃ〜ん〜」

の引き金になりましたので、ここで書いちゃうとネタバレになりますんで、

またいつかちゃんと書きますが、

少年達の8月15日は、読めば読むほど、生きた絵として浮かび上がってきます。声が聞こえるようなのです。

 

戦争や平和の劇を上演していると、観る側の、こうであって欲しいという要求に苦しくなることがあります。ですが、真実は意外にもあっけらかんとしていたり、楽しい時間があったり、残酷であったり….

これ、いつか物語にしてみたいな……そんな考えがふと浮かびました。

 

この頃、私はアメリカからずっと上演している劇がありました。

それは「A Thousand Cranes 」という題名で、アメリカ人の劇作家が書いたヒロシマの折鶴の少女のお話です。

とはいっても、この頃は帰国したばかりで、生活もままならない頃で、舞台を打つというよりは、

教会や小学校の体育館でやらせてもらっている、それが精一杯でした。

ある日、あるママ友が、「登坂さ〜〜〜〜ん!!!」って、はあはあ言って一枚の紙を持って来ます。

「これ、これ、ねえ、登坂さんがやっている劇、応募してみたら?」

それは、世田谷パブリックシアターの一般公募の募集でした。これに選ばれたら、

憧れのシアタートラムという劇場で、上演されます。しかも、劇場を借りる金額の心配も無いし、

告知は世田谷区でやってくれる!夢のようです!

しかし、問題は「A Thousand Cranes」は、作者はキャサリン・S・ミラーさん。私のオリジナルではありません。

それに、子供劇として書かれていますから、上演時間が30分強。作品として応募するなら、せめて1時間は欲しい。

しかも、締め切りは明日。

子供たちにご飯あげて、お風呂入れて、寝かしつけて…..

真夜中に考えます。

まあ….無理だな。

劇場……

それは、素晴らしい神聖な場所です。舞台と客席と、照明と、音楽….

人間の動きと声によってその空間は魔法のようになります。

宝塚にいたころは当たり前のように劇場に立たせてもらっていた自分。

退団してみて、そのありがたさを痛感するわけです。

 

やれやれ…..でも、一冊の写真集に手が伸びます。

森住卓さんの写真集。チェルノブイリで生まれた赤ちゃんの写真。

赤ちゃんと言っていいのか…..

産んだ母親はその赤ちゃんを見て、叫び声を上げて逃げてしまったと解説にあります。

「誰がこのような姿で生まれたいだろう…….」

 

数分後、PCを開き、キーを打ち始めます。書いてみよう。30分の原作に、そこに行きつくまでの

この目で見て体験した、真実の話をそのまま演劇の手法を用いて、付け足したらどうだろう。そうだ、アメリカで体験したそのものを

語る女性がいて、そのまま、作品を演じるという形に脚色してみよう。淡々と語ってゆくのだ。シンプルに。

明け方に出来た原稿を、ママ友が握りしめて持ってきてくれた

応募用紙と一緒に三軒茶屋の世田谷パブリックシアターに持って行きました。

締め切りギリギリ!

やるだけの事はやったんだから、これでいいや。

 

そして、一ヶ月後、世田谷パブリックシアターの担当の方から電話がかかってきました。

それは…….

 

 

3月22日までの歩み その4

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私の叔父さん…..

昭和5年生まれ。

いつも温厚で、背が高く、にこにこ。

私が小さい頃の母と叔父さんの待ち合わせは、

東京駅の大丸デパートの前のたしか太い柱の何番目。

その日は必ず私も何か買ってもらえるから、すごく楽しみでした。

職業軍人の父親を持った兄と妹は、戦中と戦後では生活は一転して、

苦労しただけに、私から見ても仲の良い兄妹で、母が56歳で逝ってしまった時は、

「幸子、幸子」って、額を母にくっつけて号泣してしまった叔父でした。

 

晩年の叔父にはなかなか会う機会が無かったのですが、

その時受話器の向こうの叔父は、あのおっとりした声で、「のんちゃん、のんちゃんはアメリカでも

帰国してからも、劇をやっているんでしょ?叔父さん、エッセー書いたから

その原稿を送るね」というものでした。

 

「8月15日の記憶」

 

昭和20年、叔父は15歳。

学生は勤労奉仕として、勉強ではなく、金沢のお寺に泊まりこんで、

機械を使っての重労働。その日々を、しっかりとしたエッセーに仕上げていたのでした。

私を驚かせたのは、あの温厚な叔父が書いたとは思えない、怒りに溢れたその文章。

と、同時に、得意の絵を用いて生き生きと描かれてたものは、当時の15歳の青年が見たもの、

感じたこと、楽しみにしていたこと、そのものでした。

スキャン

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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そして、日本中の価値観が一転した、8月15日のところでは、

エッセーのラストは、見事に私の予想を裏切りました。

それは….

 

 

3月22日までの歩み その3

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山のような写真集は桃井和馬さんという方の本でした。

取材地は、紛争地からアマゾン、アフリカ、ロシア、南米、etc.etc….

この人のパスポートの出国入国スタンプはあっという間に一杯になっちゃうんだろうな〜

などと、思いつつ著作を読ませて頂きました。

そして、その方の講演会が近くの教会であるというので、私は、のこのこ出向いて行ったわけです。

 

実際にその眼で真実を見た人の話を聞きたい。

 

その日は、穏やかな日で、東急大井町沿線の駅からすぐの小さな教会で、

アットホームな講演会だったのですが、最後に質問させてもらうことがあったので、

つい、私は聞いてしまいました。

「あの、桃井さんは、その眼で世界中の戦争や悲劇や不条理を見ていらしたけど、

平和というものはあるのでしょうか?」

今思えば無茶ぶりな質問です。でも、桃井さんの答えはきっぱり、

「平和なんて、無いです。ただ、平和を希求しない奴はダメだ。

このように、机を挟んで、この距離で、こうやって語り合う、ここにそれがあるんですよ。」

 

あっさり「無い」と言われ、むしろ何か軽くなったような、

そうか、この距離でいいのだ、向かい合った人と

語り合う、ここにそれがあるのだ。

当時の私には、かなり救いの言葉でした。

そして、その著書の中の一冊にあった、子供たちへ書かれた本には、

 

「一日を愛し、一年を憂い、千年に思いを馳せる」

 

というメッセージがありました。

平和の子供劇を作っていて、自分の息子をほったらかしにしてしまったり、

人間関係でまったく平和どころか、和解すら出来てなかったり、

ついつい、自分自分自分になってしまっている矮小さ。

こんなふうに、時空軸を持って、生きることが出来ないものかなぁ….

PTAに出かけながら、二子玉川の奥地の菜の花畑をぷらぷら歩きながら思うわけです。

 

そこに、めずらしく私のおじさんから電話がありました。

それは…..

 

 

 

 

 

 

 

3月22日までの歩み その2

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6年生が作った劇は、自分たちで脚本も書いた、「戦争」をテーマにしたものでした。

4組あったので、各クラス選んだ題材は、「原爆」「食料配給」ごめんなさい、忘れちゃった!もうひとつはなんだったかな?

そして「学童疎開」でした。

それは良く出来ていて、ちゃんと当時の事を調べて作ったのが良くわかります。

原爆の落ちた時の表現など、体育館の隅においた和太鼓をドン!と一発叩いて、

真っ暗にして、無音の中ダンボールがバラバラと崩れ、静かに生徒たちが倒れます。

実に怖い。学童疎開の劇をやった組はちゃんと大きな汽車を作って、

お別れのシーンを作りました。

親としても、また演劇に関わっている者としても、ちょっと言葉にならないものを受けて、

ここまでの作品をちゃんと作ったのだから、きっと先生方も、それはちゃんと指導して下さったのだろうと

思い、廊下で担任の先生に駆け寄りました。

「先生、素晴らしかった!どうやってあんなふうに作ったのですか?」

先生はニコニコして、「登坂さん、子供たちは全部自分たちで作ったんですよ〜。私たちはそれを見守ってただけで」

 

自発的に何かをやる……

 

この頃、私は「伝える」という難しさにぶつかっていまして、

特にこういった「平和」ということになると、返って難しい。

「A Thousand Cranes 〜禎子と千羽鶴〜」も、何度も辞めようと思うのですが、

なんだか結局、機会をもらうと一生懸命上演してしまう。しかし、私がそういう事を出来る資格があるのか。

世の中に平和なんてあるのかいな?と自問自答しつつ、結構苦しい時期でした。

 

なので、5年生の時に体育館で自発的に鶴を折った子たちが、自発的に「戦争」の劇を作ったというのは、

ああ、こういうものなのだ。こちらが力まなくても、信じ、見守っていけばいいのだと。

息子の小学生最後の学芸発表会は、まさに、大きな答えをもらったような体験だったのです。

 

私は「伝える」という事に対して、もう少し明確な何かが欲しくて、

この頃から、地球の果ての紛争地域などで写真を撮っている、フリーランスの報道写真家の方の

お話を聞きに行くようになりました。彼らこそ、真実をその目で見て伝えている人です。

そして、

ある時、親切なご婦人が山のような写真集を私に下さりました。

それは….

 

つづく

 

 

3月22日までの歩み その1

 

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すっかり時間があいてしまいました。

久しぶりにアップするblogですが、今回は、お伝えしたいことが沢山あるので、こつこつとやろうと思います。

来る3月22日、私が住んでいる地域のプロジェクト「せたよん」で、

「A Thousand Cranes~禎子と千羽鶴〜」を今年も上演致します。

今回は昨年と違って、前半の部分はカットして、ヒロシマのストーリーの部分のみの上演になります。

後半は、初めての試みなのですが、2010年に東都生協「平和のつどい」で上演した、私のオリジナル作品「unseen 〜あんしぃ〜ん」を学童疎開児童の部分だけ、朗読劇にしてやってみようと思います。

この劇が出来るきっかけや、それからのつくるまでのエピソードを

たぶん、当日はお話ししきれないと思いますので、ここでお伝えしたいと思います。

 

最初のきっかけは、息子のトシが当時通っていた砧南小学校の体育館で

禎子と千羽鶴を上演した時のことです。5年生のときだから、もう9年前になりますね….。

とても演劇が好きなトシの担任の先生の発案でした。その時は、私にヒロシマ弁を指導してくださった、村上啓子さんも来てくださって、ご自身の体験も5年生さん全員にお話してくださりました。

体育館で、終わったあとに、一人、二人と、鶴を折ってきてくれて、結果子供たちが自発的に折った鶴は、いつのまにか千羽になり、それを啓子さんはちゃんと千羽鶴にして、ヒロシマに持って行ってくださいました。

さて、みんなは進級して、6年生になりました。

春が来て、夏が来て、秋の学芸発表会を観に行って、私はびっくりしたのです。

つづく

 

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